注意 : これは、楊品瑜主宰中国茶芸教室の会刊に連載してもらっているものです。
 
 


 
 

* more 茶 time * (その1 そのぎ茶)

 
    最近、私が中国茶以外でちょっとはまっているお茶が、「そのぎ茶」です。 「そのぎ茶」は長崎の県産品のひとつでもあります。 そこで、長崎県のお茶事情について調べてみたいと思います。

彼杵(そのぎ)茶のあゆみ
  彼杵町は古くから農業の町として発展してきましたが、お茶はその中でも主力産物であり、 今日県内60%を生産しています。 その永い歴史の中に育まれた土づくり・茶園づくりに始まる製茶技術により良質茶が生産され、 年ごとに評価を高めています。
  彼杵茶生産地の行政区分は東彼杵町になります。 東彼杵町は1959年に彼杵町と千綿村が合併してできた比較的新しい町です。 このために、「彼杵」という名称は「彼杵茶」をはじめ、いろいろなところに残っています。 ちなにみ、西彼杵は大村湾をはさんで反対側になります。 彼杵は早くから歴史に登場したところで、その生い立ちは興味深いので紹介してみましょう。
  白井川遺跡から出土した“後漢鏡片”などから、弥生時代のクニの中心が彼杵にあったことを示しています。 更に、“ひさご塚古墳”の前方後円墳(5世紀)や“上杉古墳群”(6世紀)などによって、 遠く弥生・古墳時代にさかのぼることができますが、 奈良時代の“肥前風土記”に「景行天皇がこの国を貝足王国(そないだまのくに)と名づけられたのが、 “彼杵”になった」と記されています。
    
  大和朝廷の全国統一が進むにつれて、かつてのクニは郡となり、 713年(和銅6年)風土記撰進の時には、 肥の国は都(平城京)に近い長崎・佐賀県側が肥前、遠い熊本県側が肥後国とされた。 肥前の国には彼杵郡(こおり)の他、松浦郡・藤津郡・高来郡など11郡があり、 彼杵に郡衙(ぐんが、郡の役人 郡司 が政務を行った役所)が置かれ、彼杵郡の中心として存在していました。
  奈良・平安時代のいわゆる律令時代には、交通の要所の関係もあって、 郡衙の所在地としての彼杵の地位は続いていたと岡遺跡が物語っています。 鎌倉時代のはじめには、彼杵郡全体が荘園化され、彼杵の荘になり、 その荘園の中には仁和寺領や九条家領などがありました。 同時代の後期、1292年の“河上宮造用支配惣田数注文”には“彼杵庄四百十二丁五反”とあります。

長崎県はお茶の玄関口
  日本で最初の茶書『喫茶養生記』の著者として、また、茶の喫茶の普及に大きな役割を果たした栄西。 中国の宋に学んだ栄西は1191年、帰国の際に平戸島の葦の浦に着き、 “富春庵”の裏山に中国より持ち帰った茶の種子をまき、製茶や喫茶を教えたと伝えられています。 茶園は“富春園”と呼ばれ、現在も平戸市の“千光寺”にあって、日本茶業の発祥地と称されております。 その後、栄西は佐賀県の背振山の霊仙寺石上坊に移り、そこにも茶の種子をまいています。
  1858年に日米修好通商条約が締結され、翌年から茶の輸出が始まり、生糸と共に重要な輸出品となって、 茶業の情勢は大きく転換期を迎えることになります。 本格的に茶の輸出が始まる前、アメリカ東印度艦隊提督ペリーが4隻の艦隊を率い浦賀に入港した1853年、 長崎の“大浦 慶”は『釜炒り製玉緑茶』を輸出用の見本茶として輸出しています。 “大浦 慶”の輸出は1856年のイギリス商人オルトとの契約に始まり、 3年後にオルトと契約した12万斤(72t)を集めるため、肥前彼杵(そのぎ)、嬉野はもとより、 肥後、筑後、日向を中心に、荒茶の買い付けを行う一方、上級茶の製品に再生するため、 “釜炒り法”での製茶工場を敷地内に建設するなどの努力をしました。 1859年、オルトと契約した量には及ばなかったものの、釜炒り茶1万斤(6t)を輸出し、 近代日本の緑茶輸出の先駆けとなりました。 なお、“大浦 慶”は、1861年に釜炒り茶50万斤(300t)の輸出実績を残しています。
  江戸幕府は、日米修好通商条約の締結に伴い、長崎を開港することを決めました。 そして、自由貿易の準備を進めるため、1859年九州の茶主産地に近い長崎に外国貿易製茶改所を設け、 更に翌年には製茶所を建設しています。

明治時代の茶業
  長崎県では当時、東彼杵を中心に北高来との二郡の生産量が最も多く、 西彼杵、南高来、北松浦の三郡がこれに続いていました。 明治維新後、茶の貿易はますます盛んになり、 製茶輸出の増大と共に茶園の面積・製茶の生産も著しく増加しました。
  明治18年、県が東彼杵・北高来両郡へ県官を派遣し、籠焙炉製茶を指導。 県下の製茶製造はそれに従い、その製法を従来の“釜炒り茶”から、輸出用の“宇治製煎茶”へ移す者もいましたが、 製茶法が複雑であまり伸びませんでした。 一方、製茶輸出増大と共に、茶の粗悪品が出回るようになり、一般製茶の名声を失う恐れがあったため、 明治17年から各地の茶業者に“茶業組合規約”を結ぶように奨励。 弊習を改めて信用回復に実績をあげ、明治33年、彼杵村に長崎県の茶業研究所が設立され、 翌年には大村に移転、明治35年に廃止されました。
 明治28年頃から、里郷(彼杵の中の地名)の“田島 福次郎”は、茶園10haとみかん10haの目標を立て、 大正の初めには模範的な“田島農園”を作り、更に大正14年には機械製茶工場を作りました。
  明治44年、中尾郷・菅無田郷・法音寺郷・川内郷の一部を区域として、 “松添 半四郎”組合長外72名による“無限責任大楠信用購買組合”を設立。 大正8年には組織を拡大。上彼杵全地区を対象に“無限責任上彼杵信用購買組合”と改称し、 組合員の信用事業を推進する一方、この地区の主幹作目である茶業に力を入れ、 大正15年には“静岡式製茶機”を設置。組合員より生葉を購入し製茶事業を開始しました。 その製品は主に長崎・佐世保・五島方面へ出荷され、組合員も茶園の新植や改植に努め、 上彼杵地区茶業の発達に貢献しました。

大正時代の茶業
  全国的に輸出農産物としての茶生産が促進され、茶園の増加・肥培管理の向上で、 生葉の収量も増加してきましたが、全てが手摘み・手炒り・手揉の製造が行われており、 特に、手揉の製造は重労働で生産能率も悪く、荒茶加工が茶経営の重圧となっていました。
  明治30年に“高林謙三”によって発明された茶葉揉乾機が次第に普及し、 製茶の機械化が始まりました。 また、大正4年には“内田三平”により摘採機(手鋏み)が考案実用化され、 茶業の機械化はさらに進み、生産費の低減が図られました。

昭和初期の茶業
  第一次世界大戦の中、イギリスの紅茶の代替として日本緑茶が空前の輸出量を示しましたが、 大戦の終了とともに元に戻り、大正10年には輸出量激減という状況によって茶の価格も暴落しました。 更に、大正末期~昭和初期にかけての昭和経済恐慌を迎え、対米輸出は不振となりました。 これに伴い、大正14年にはソ連へ“玉緑茶”(当時は“グリ茶”と呼ばれており、 1932年に“玉緑茶”と名称を変更)の輸出を開始しました。 昭和10年頃には4,500t輸出しましたが、ソ連の自給計画の進行に伴い、 玉緑茶は北アフリカのモロッコ・アルジェリア・チュニジアなどの市場へ輸出されましたが、 太平洋戦争に突入してから輸出は途絶えました。 蒙古やアフガニスタンへも輸出されましたが、戦争末期には生産量の10%程度となりました。
  “釜炒り製玉緑茶”の主産地であった東彼杵町(当時、彼杵村)でもその品質が認められ、 ソ連への輸出の対象に加えられることになり、生産者の増産意欲は一段と高まりました。 昭和3年に“露国茶移出茶業組合”を設立し、翌年より輸出を開始したところ好評を得、 同4年には8,606kg、同5年には11,057kgと順調に輸出しました。 その後、彼杵村と千綿村で話し合い、共同で出荷するようにしました。 同8年には三菱商事一社で約9.4tを輸出するまでとなりました。
  しかし、当時は茶の栽培も製造技術も生産者間の格差が大きく、 輸出対象茶の条件となる統一された良質茶の大量生産のため、関係機関の要望により、 同4年“長崎県農事試験場茶業部”が三根郷に設置されました。 翌5年に“長崎県農事試験場付属茶業所”と改められ、 茶の栽培・製造技術の研究と生産指導が開始されました。

東彼杵町赤木原の開拓
  第一次世界大戦が終結した後、世界経済恐慌の波は農山漁村を襲い、米価と蚕糸の価格は暴落しました。 国は農山漁村の救済対策として森林原野の開墾を積極的に推進し、 昭和3年に昭和天皇の即位式を記念した“御大典記念救農土木事業”が全国的な規模をもって実施されました。
  こうした状況の中、東彼杵町赤木の“野田卯太郎”は、 昭和3年9月“御大典記念”に赤木にて開墾を開始し、昭和6年12月に10aの茶園を竣行しました。 村の人々は同氏のために“御大典記念茶園”の記念碑を建て、 “佐賀県不動山ノ産、野田卯太郎、明治二十一年二十四才ニシテ彼杵村ニ来リ、鍛冶職ノ為、 専ラ農業に従事ス、茲に御大典ヲ記念ス”と刻み、ここに赤木の茶園発展の一歩を記しました。
  昭和9年、時の中島村長は赤木原の開拓に情熱を燃やし、“赤木原耕地整理組合”を結成しました。 村民一体となって毎日原野を開墾し、ついに約110haの畑となり、茶が植えられ、 見事な集団茶園が完成しました。 これによって生産意欲は一段と高まり、栽培・製造技術も向上し、茶の生産が促進されました。
  昭和44年、米の生産調整に伴う一律減反などの諸対策が実施され、農業構造改善事業とともに、 農業生産の選択的拡大と水田利用の再編が強く問われだした昭和45年、 県営赤木地区農業開発事業(県営赤木パイロット事業)が着工され、7年後の昭和52年、 総事業費8億円で茶園約26ha・みかん園53ha圃場が完成しました。

東彼杵町赤木原の開拓
  昭和40年代には、 従来からの畦半作・間作茶園・混作茶園等が零細規模農家の脱落を含めて整理される一方、 農業構造改善事業や新農政推進特別対策事業等で、新・改植などによる品種茶園の集団化が行われました。 茶生産農家の茶工場は、茶園の集団化や茶園規模の拡大に伴い、 従来の“釜炒り製玉緑茶”の茶工場から“蒸製玉緑茶”の工場が増加し、 昭和39年には釜炒り茶80工場・蒸製茶8工場だったものが、 昭和46年には釜炒り茶46工場・蒸製茶32工場となりました。
  昭和49年、茶業の近代化や加工施設の大型化が進むに伴い、 佐賀県・長崎県経済漣や産地の農協等が一体となって生産流通の一元化を図るため、 “西九州流通センター”を建設しました。 昭和49年の取扱い実績では、長崎県の荒茶数量173.9t平均単価640円、佐賀県荒茶数量872.3t、 平均単価770円でした。
  その間、蒸製玉緑茶の個人茶工場の増加と導入機械の多様化により、 茶工場間の品質の格差が見らましたが、 “長崎県総合農試東彼杵茶業支場”で“蒸製玉緑茶標準製造法”の技術が確立されるなど品質の高位平準化へ努力し、 平成2年には被覆資材を利用した栽培方法や加工技術の向上などにより、 長崎県の荒茶数量430.7t平均単価1,552円、 佐賀県の荒茶数量1,604.3t平均単価1,460円と茶の取引平均単価は上回るようになっています。
  最近では、各種清涼飲料水の普及に伴い、“そのぎ茶”の銘柄確立と茶の消費拡大のため、 東彼杵町・生産者・茶商が一体となって、昭和62年10月に“そのぎ茶振興協議会”を設立しました。 茶の消費宣伝・消費拡大を中心に活動中です。 現在、東彼杵町の茶栽培面積は400ha で、品種は“やぶきた”が8割を占めていますが、 早生種や晩生種の導入が進み、生産時期の調整や特色あるお茶の生産に取り組んでいます。

高機能発酵茶の開発
  長崎新聞(2006年9月17日版)によると、 県総合農林試験場東彼杵茶業支場と県工業技術センターは共同で、 昔から薬効があるといわれ、 全国一の生産量を誇る長崎県特産の“枇杷(びわ)”と、カテキンなどの有効成分が豊富に含まれている茶葉をうまく活用し、 両者の機能を上回る高機能の素材の開発を行ってきました。 その結果、茶葉と枇杷葉の両葉をもみ込んだ混合葉は機能性が高くなることを確認し、 開発した技術の保護のために国際特許・国内特許を出願しました。 今後は厚生労働省が認可する特定保健用食品としての機能性飲料・サプリメント等の製品化を目指すそうです。


 
 

大浦けい居宅跡の碑


グラバー園内の旧オルト邸
 
 
(礒永 智子 2006年8、9月)