注意 : これは、楊品瑜主宰中国茶芸教室の会刊に連載してもらっているものです。
 
 


 
 

* more 茶 time * (その2 せちばる茶)

 
    今回は“ハウステンボス”や“佐世保バーガー”でも有名な、 長崎県佐世保市で生産されている「世知原(せちばる)茶」(佐世保市世知原町)について調べてみたいと思います。 「世知原茶」は、前回紹介しました「彼杵(そのぎ)茶」に次ぐ生産量の“長崎の茶”です。

…深い香り、自然の味わい…「世知原茶」
茶業の発達
  世知原は長崎県下において、雲仙に次ぐ高冷地で降雨量も多く、地質は三紀層の玄武岩土壌で、 茶樹の生育に最適の地帯です。 昔から国見山麓一帯の畦畔に栽培された半自生的な茶を摘み、 農家の自家用として釜茶(釜炒り茶)の製造をしており、余剰分は佐賀方面へ茶商人が買って持ち帰り、 市場に出されていました。 以下の話の理解を助けるために世知原の行政区分の変遷を紹介しておきますと、 明治22年(1889年)に町村制度で世知原村となり、昭和15年(1940年)に世知原町、 平成17年(2005年)に佐世保市世知原町となっています。

  明治28年、当時の世知原村村長“西山乙三郎”・“河内国十郎”氏の時代に茶業振興対策を樹立し、 世知原村を中心に柚木(ゆのき)村・大野村・皆瀬(かいぜ)村・吉井村・上志佐町の六ヶ村連合で、 当時の東福寺(現 洞禅寺)の東側に製茶練習所を設置しました。
    
“中倉万次郎”氏を所長として各村青年およそ50名が講習生となり、毎年製茶時に約一ヶ月間、 約四年にわたり静岡式製茶法の指導が行われました。 講師には静岡県から藤田某氏を招き(当時給料80円を支出)、 県も巡回教師増田某氏を派遣して指導に当たらせました。 これが世知原町における製茶指導のはじまりで、その製品は長崎の貿易商溝上某氏に送られ、 輸出茶としたと言われています。 講習終了後、受講者の成績優秀者を静岡に派遣して製茶技術の奥義を極めさせました。 当時の派遣生で製茶教師の免除状を得て帰村したのは、 “百枝義雄”“山口徳次郎”“茂山市三郎”の三氏でした。 以来、静岡式製茶の流れをくむ製茶場が洞禅寺・清水屋・山口徳次郎・西山唯一郎・石田清作氏らで継続され、 世知原町の名を近隣にあげました。

  その後、大正10年頃、当時の農会長“久田玄三郎”氏は茶業の振興を図るため、自ら静岡地方を視察し、 また、町民を見学に派遣し、講師を招聘して講習会を再開し、その奨励に努めました。 しかしながら、静岡式製茶は非常に技術を要したため、遂に一般農民には普及するに至らず、 一部の熱心家のみに終わったのでした。

  昭和4年、上志佐村の小学校校長であった “金子實”氏は自宅前の畑二反歩に五尺畦実生による茶を植えました。 翌年、鷹取茶園の蒔付がなされました。 これらが現存する純茶園のはじまりです。 これに啓蒙されて町内に純茶園ができるようになり、 始めはその生葉の処理を上志佐の吉原工場に依頼していましたが、昭和14年に町営茶工場ができ、 町は釜茶製造の講習会を催すなど製造技術も向上してきました。 この頃、北川内免の“瀬田屯(たむろ)”氏が全国品評会釜茶部に一等入賞し、 「世知原茶」の名声と地位を高めました。
  昭和30年、“前田信義”町長の折、三大産業の一つである茶の振興を強力に推進し、 約十年の歳月をかけて第一目標の100ヘクタール茶園製造を達成しました。
  昭和43年には、“県北茶業連絡協議会”を設置し、県北地区500ヘクタール茶特産地形成を目標に、 町と県北茶業連絡協議会が一体となって、 その後県の茶業指導所を板山地区に設置しました(現在は廃止)。

茶園
  五尺畦巾の茶園は、昭和5年“高野与三郎”校長が青年学校実習茶園として町有地を借り受けて、 四反歩を蒔付け(実施は青年学校実習生である青年団員が担当)ました。 翌年“金子實”校長が赴任して以来、これを拡張し、1.7ヘクタールになりました。 この後から茶栽培が町民に普及し、畦畔茶から専用茶へと移行していきました。
  昭和8年頃、松浦炭鉱支配人“岡本彦馬”氏が硬山(ぼたやま)を利用して茶園を栽培することに着眼し、 “瀬田屯”氏に依頼して1.6ヘクタールの茶園を造成しました。 これは、全国でも初のケースで、硬山利用の先駆者となりました。 昭和11年、同氏がここを去る際、付属山林と共にこの茶園は町に寄付されました。

  終戦当時、茶園はわずか7ヘクタールに過ぎなかったのですが、茶価の好況によって、 昭和26年には23ヘクタール、30年には40ヘクタールと増加し、生産量も増大しました。 しかし、昭和30年から36年にかけて茶価は不況に見舞われ、一時荒廃の危機にさらされましたが、 その期を脱して次第に回復し、昭和37年になると生産量・栽培面積も増加し、 昭和38年には茶栽培も「やぶきた」等の優良品種による栽培が有利であることに着目、 国の原種農場から茶苗木を取り寄せ、品種園の設置を行いました。 また、県の委託による育苗圃の設置をして優良品種の育苗を始め、 その後の茶の増殖は全てこの優良品種に限定して増殖に努めています。 この間産出した苗木はすべて世知原町分の増殖に回し、 育苗も昭和40年代には年間100万本を14名の生産者で行っており、 苗木の完全自給態勢を整えるようになりました。 現在は年間5万本くらい育苗しています。
  農業構造改革事業として実施した「板山機械化茶園」の計画地総面積は37ヘクタール、 この集団茶園のみで36万キログラムの生葉、90トンの生産を計画していました。
  昭和42年、第一次農業構造改革事業による茶園造成として板山地区25ヘクタールを造成され、 同年に“農事組合法人板山茶園組合”として設立されました。 組合員27名(現在22名)で運営されており、茶園面積20ヘクタールで、 「やぶきた」15ヘクタール・「さやまみどり」2ヘクタール・「実生やぶきた」3ヘクタールが植栽され、 現在生産収量も約200トンになっています。

  昭和44年には、地域特産農業推進事業によって町営茶工場敷地内に“茶低温貯蔵庫”が設置され、 貯蔵能力300トン・事業費10,255,000円、これにより荒茶の品質向上と価格の安定が図られました。
  昭和45年には、第一次構造改革事業である特用作協業施設事業による “緑茶加工施設”が板山茶園組合に設置され、 生茶処理量250トン・2ライン・120キログラム・事業費21,246,000円で、 製茶技術の向上により良質茶の生産が図られています。
  昭和48・49年には、第二次農業構造改革事業によって、 「黒石・木浦原地区」に27ヘクタールの茶園が造成されました。 当時38名が配分を受け、生産量の確保と良質茶の生産が図られています。 また同年、特用作協業施設事業によって緑茶加工施設の設置、 事業費31,880,000円・2ライン・120キログラム、 事業主体は“木浦原製茶組合”として運営されています。

  昭和57年、茶園が一番被害を受けやすい凍霜害の予防対策として、 長崎県下で第1号として「黒石地区」に“防霜ファン”が設置されました。 83基のファンで面積9.1ヘクタール・受益者9戸・事業費12,143,000円、 この事業により晩霜の被害を回避し、安定した良質茶の生産が図られています。
  昭和62年には、「世知原茶園団地」として大規模である「木浦原地区」と「板山茶園」は 農業生産体質強化総合推進対策事業によって、防霜ファンを設置しました。 木浦原9.5ヘクタール・ファン数153基・受益者20戸・事業費33,100,000円、 また、板山茶園組合組合員22名・施設面積12.4ヘクタール・ファン数162基・事業費42,160,000円で 板山茶園面積の62%に当たる面積となります。
  昭和63年には、「遠見岳地区」に防霜ファン設置されました。 面積6.5ヘクタール・ファン数78基・受益者5戸・事業費19,100,000円で、遠見岳防霜施設組合として運営され、 晩霜常襲地帯もこれで回避されました。
  平成元年から、優良茶の生産確保のため被覆施設の推進を図り、 町の被覆茶園目標面積を40ヘクタールと定めました。 これは推進助成金としてふるさと創生資金によって助成していく方針です。

  このように、世知原町の防霜施設率は全面積の約35%に当たります。 町全体の茶園も優良品種に新改植が進み、製茶技術の向上と良質茶の生産を図っています。 平成8年の全国茶品評会では日本一の産地賞を受賞するなど、茶品評会において上位入賞をしめ、 「世知原茶」の銘柄の確立を図っています。 また、昭和61年から始めた“じげもん市(新茶まつり)”も佐世保を中心に県北一帯に好評で定着しています。

茶工場
  農家は、自家用として立て釜で製茶をしていましたが、栽培面積が増加し生葉の量も増え、 在来の手製で処理できなくなり機械製茶の必要性がでてきました。 昭和13年、村長の片山要氏は、国の補助金3,700円余りを得て“釜炒製茶機”を購入し、 彼杵の高坂才吉技手を招聘して村営業所を開設しました。 当時は専用工場もなく、小学校の収納舎を借用して機械製造に着手しました。
  昭和14年に至り工場を建設(現在の農協肥料倉庫)、本格的経営に移りました。 以来、町営工場は特別会計で独立採算制をとり収益はその拡張にあてました。 昭和30年頃には、栽培面積の増加に伴い、製茶工場も民間に2工場を加え拡張を続けました。
  特に、昭和27年には製茶能力を増すために“世知原製茶農協”を作り、茶農協経営の工場を建設しました。 これによって茶農協の生産量は増加し、昭和29年には槍巻・木浦原に分工場を作り製造態勢を整えました。
  ところが、昭和30年頃から戦後の好況期の反動が現われ、流通機構の不備等もあって不振になり始め、 茶農協も不振の一途をたどり、昭和34年、遂に町工場に吸収合併されました。
  昭和35年から37年になると茶業の不況も回復の兆しが見え、 新農村建設事業で茶工場を上野原・北川内・長田代に設置しました。 他の個人工場も4工場と増え、工場数は12工場となりました。

  このように生産量は増大してきましたが、 反面では日本経済の急速な発展に伴い人手不足と人件費高騰に悩まされ、 町営工場は分散工場の運転でコスト高になるため合理化に乗り出し、 4工場を2工場に合併して能力を増し、集中加工することにしました。 その後、民間工場も次第に規模を拡大し、合理化した町営工場もさらに能力が増大したが、 増産される生葉の処理加工に追いつかず、ますます不足する労働力、増大する人件費の節約のため、 そして全国的な緑茶の消費傾向に対処するためにも新しく大型の近代化工場を建設することにしました。 また、釜炒茶製造では消費が限定され有利な経営が見通せないため、 世知原町の約50%を占める町営の工場を蒸製の工場にすることに決め、製法の一大転換を行いました。
  昭和42年から蒸製加工が普及し始め、昭和56年には釜炒工場は姿を消しました。
  昭和50年に、町営茶工場は北松農協に移管されました。

現在の世知原茶業の取り組みについて
  現在の世知原では、環境にやさしい茶栽培を目指した活動が活発に行われていますので、 最後にそれを紹介します。
  目的 :

施肥料削減・科学合成農薬散布回数の削減により、環境負荷を軽減し、安全・安心な地域 ブランド「世知原茶」の確立を図る。
  内容 :

エコファーマーによる土づくり・適期防除(フェロモントラップ等)の実施。
エコファーマーの意識向上。
  成果 :









①長崎県内で初の茶農家エコファーマー認定。平成17年度までに35名の認定者。
  (世知原町茶園面積の約60%)
②平成16年2月19日に、県内で初の「エコファーマー認定者協議会」を設立。
③茶業部会による定期的な土壌診断の実施。
④施肥料の削減を実施。有機質肥料を主体とした“味と香りの世知原茶”の研究。
  (地域栽培基準値 平成12年以前…65kg窒素/10a → 現在…53kg窒素/10a)
⑤農薬散布回数の削減に繋げる、地域における防除情報の共有化。
  (平成15年3月から実施)
⑥全国環境保全型農業推進コンクールにおいて奨励賞を受賞。(平成17年3月)

 
 
(礒永 智子 2006年12月、2007年1月)