世界に拡がった中国茶

 
  お茶は現在世界中で一番広く飲まれている飲み物である。 お茶は形を変え、その国の文化に合った形態で、人々の間で楽しまれている。 ある国では紅茶を、又ある国では緑茶を、そしてお茶好きの人々にはその種類を問わず、 それぞれのお茶にあった飲み方で日々喉を潤している。 お茶は世界共通の文化の一つであると言えると思う。 つまり、それ程お茶と人間の生活は深いのではないだろうか。

  そのお茶は現在全世界で様々な種類のものがあるが、すべての起源は中国にある。 お茶が初めて発見されたのは紀元前2700年頃といわれ、神農が解毒に使ったと伝えられているが、 原産地は中国の西南部、雲南省から四川省にかけての丘陵地帯であるといわれている。 その後、760年には茶の神様といわれている陸羽が世界最古の茶の科学書「茶経」を著している。 では、一体お茶はどのようにして世界に広まっていったのだろうか。 まず、日本は世界の中では比較的早期に中国から伝来している。 805年には日本の僧最澄が中国から種を持ち帰り、比叡山に植えており、1191年には栄西が種を 持ち帰り明恵上人がそれを現在のお茶どころ(宇治、狭山、静岡など)に植え広めた頃から 始まっている。 お茶が一般庶民の手に届くようになったのは室町時代の初め(1400年)頃とされているが、 やはりその室町時代には上流階級の間で茶の湯が誕生し、現在も日本を代表する伝統文化に育っている ことは周知のとおりである。

  日本の他に、お茶大国と言われる国に英国が挙げられると思う。 英国も一大紅茶文化を築き、今もなお英国人と紅茶とは密接な関係にある。 では、お茶はどのようにしてヨーロッパ方面に伝えられたのであろうか。 ヨーロッパへ初めて中国茶を輸出したのは、1610年オランダであった。 その後、オランダは中国茶の輸入を始め、1645年にはイギリスにも売り込んでいる。 始めは緑茶が輸入の主だったが、やがて発酵させた烏龍茶がまざるようになり、 さらに発酵させた紅茶がヨーロッパ人の嗜好に合うようになり、1785年以降はほぼすべてが 紅茶に替わったといわれている。 オランダは中国福建省の港廈門と貿易航路を結んで茶の輸入を開始していたため、 福建語系の TAY に近い言葉 tea が茶を表す言葉として、オランダを経てヨーロッパ諸国から北欧へ 拡がった考えられる。

  17世紀中頃、イギリスに中国茶が輸入されてはいたが、その当時はオランダの”日の沈まぬ帝国”と いわれる程の勢力を前に東洋貿易の主導権をにぎることはできなかった。 しかし、17世紀末になると数回にわたる英蘭戦争でオランダを破り、アジアにおいても 西インド方面においても着々と貿易の支配圏を拡大していった。 こうして、中国茶の輸入も18世紀になると、オランダからイギリス東インド会社の手に移っていった。  イギリスにおいてお茶が紹介され始めた当時は、お茶は健康に良い薬とされていたが、 いつしかそれが人々の飲み物へと変化していった。

 その一つのきっかけは英国宮廷における東洋趣味である。 1662年にチャールズ二世に嫁いできたポルトガル王の娘キャサリンは持参金としてインドの ボンベイや中国茶と茶道具として当時純銀と同じ程貴重であった砂糖などを持ち、東洋の飲茶の 風習を宮廷にもたらした。 それまで宮廷では、エールやスピリッツ等のアルコール飲料に代わってファッショナブルな飲み物に なっていったのである。 そして当時は銀の茶器、中国製の茶碗、そして中国茶を飲むこと(シノワズリー)が上流階級の ステイタスシンボルとなった。 イギリスにおける紅茶文化の原点はここにあると思う。 そしてそれがゆっくり時間をかけ中産階級へ、そして一般庶民階級へと普及していった。 その間、イギリスは産業革命が起こり、目ざましい発展を遂げていることは言うまでもない。 そしてそのイギリスは、お茶に関係する二つの世界的に有名な戦争を引き起こしている。 一つはボストンティーパーティー事件であり、もう一つはアヘン戦争 である。 紅茶の税金に反発したアメリカ人が紅茶運搬船を襲撃したのが、ボストンティーパーティー事件であり、 後にアメリカの独立戦争に発展した。 イギリスは植民地のアメリカを失い、大きな打撃を受けた。 このため、イギリスは中国からの茶の輸入に対する支払いに苦しむようになり、 穴埋めにアヘンを中国へ輸出するようになり、アヘン戦争が起きたのである。 その後、イギリスはインド、スリランカ(セイロン)の植民地で本格的な茶の生産を始めることになる。 こうしてイギリスは自国(植民地下であるが)で茶を生産し、研究開発し、そして世界中に 輸出するという名実共に茶大国になったのである。

  では、他の国々へはどのように伝えられていったのだろうか。 茶がアフリカ南端迂回による海路でヨーロッパへ紹介される前、いわゆるシルクロードによって 中国~中近東~ヨーロッパが結ばれていたことを考えると、茶は中世頃からアラビアの商人等に よって中国から中近東、東ヨーロッパには伝えられていたと考えられる。 しかし、当時の著書には茶に関する記事はほとんどない。それは現在各国で使われている「チャ」を 意味する言葉をたどってみるとよく分かるはずである。

広東語系 CHA 福建語系 TAY
日本語 CHA
ベトナム語 TRA
ヒンズー語 CHA'
ペルシア語 CHA'
ロシア語 CHAI
アラビア語 CHAI
トルコ語 CHAY
ポルトガル語 CHÁ
オランダ語 THEE
ドイツ語 TEE
英語 TEA
フランス語 THÉ
イタリア語 TÈ
スペイン語 TÉ

つまり、広東語系の CHA は陸路で、北は北京、朝鮮、日本、モンゴル、西はチベット、インド、 中近東、ロシアへ伝播したと考えられる。ただし、ポルトガルは唯一例外で、広東省のマカオを 統治していたことから、陸路とみなされる。 他方、福建語の TAY は当時の港、厦門(アモイ)と貿易航路を結んで、オランダが茶の輸入を開始 していたため、茶がオランダを経てヨーロッパ諸国から北欧へ拡がった事から福建語系の TAY に近い 言葉になっていったと考えられる。

  このように、茶は長い時間をかけて世界中の国々へ伝播していった。 日本を含めアジア諸国はもとより、中近東、ロシア、ヨーロッパ、そしてイギリスから アメリカ大陸へ渡り、そして近年では、アフリカ大陸がインド、スリランカに継ぐ第三位の新天地として イギリスの資本により開発され、ケニア、タンザニア等で紅茶の生産が始まり、かなり良質の茶が 量産されている。 そして、各国で様々なお茶文化が生まれ、それはこの時代になってより尊重される風潮に なってきていると思う。 茶はその国の文化と密接に関わり、人々の生活習慣、食習慣の中に深く溶け込んでいるからこそ、 各々の国で独自の発展を遂げ、今もなお愛され続けているのである。
(小西 由起子 2001年)