月夜星話(その1)

 

  四月の教室特別講座 『お茶を通した中日交流』(第一回) と 『上海最新茶事情』 の二つを 何とか終えることができた。 今回はいずれの教室でも季節柄、「明前雲棲龍井茶」を飲みながら清明節の話をさせて頂いた所、 一番盛り上がったのは「お墓」の話であった。

  清明節といえば、もう何度も触れさせて頂いたが、中国のお盆に当たり、「掃墓節」、 つまりお墓参りをし、先祖の墓を清める日である。 また別名「踏青節」とも言い、この頃を皮切りに郊外へピクニックや遠出をするようになるのである。 そこで私の主人の先祖が眠る蘇州の西南にある半島「東山」における掃墓の様子や、 お弁当を持参し墓の前で先祖と共に賑やかに食事をした様子、 普段は東山の墓までは遠いので故人のお札を納めてある上海市内の古刹・龍華寺に、 いつでもお参りができるようになっている話等などを、写真を交えながら話させて頂いた。

  その延長で調べて行き驚いたのが、 日本の沖縄県においても墓参りは中華諸国と同じ清明節(シーミーという)に行われ、 墓石の前で親族皆お弁当を広げ、酒を酌み交わすということである。 何せ沖縄の墓は亀甲墓(カメヌクーという)や破風墓(家の形をしたもの)といった最大100坪もある 大型のものから、小型でも6~8畳分の広さがある特色ある墓が多く、 親族が容易に集まることができるだろう。 ちなみに亀甲墓とは亀の甲羅の形に似ているからという謂れと、 女性の子宮を模した物という謂れがある。 母胎から生まれ、死んで又母胎に戻っていくという思想から来ているとか。 感動的であり、また少々生生しくもありだろうか。

  この亀甲墓は中国華南地方の福建省辺りに特に多く、 他にもジャカルタなどの南洋華僑集落や朝鮮半島などでも見られるそうである。 沖縄文化(琉球文化)が中華圏からの影響が大きいことがこの点からも垣間見られる。

  しかし、古来、遺族による故人の活躍の大きさを示すべく豪勢で派手な葬儀や土葬が主流だった 大陸の風習も、1949年の解放以来階級差別を助長し、共産主義に合わないということで、 火葬、追悼会方式の葬儀への変更が提唱され、特に都市部においては個人墓はあるまでも、 かつての様な派手な葬儀は行われなくなっているようである。 その為か、上海や北京の墓石も日本と同じような縦型に重ねられた物や郊外の共同墓地が多く、 華南では農村地帯を中心に民家の近くに作られた亀甲墓や破風墓が残り、華中では地面に棺を置き、 上から土で覆うタイプの墓が多いらしい。 今でも華中・華南を中心に農村部では土葬の習慣が主流のようである。

  また楊先生の話によると、台湾では一度墓に埋めた故人の身体を何年か経て掘り出し、 風水上運気が上がるような位置や方向を探して埋め直す習慣があるそうである。 これは調べてみると日本の地方でもよくある、「改装墓」というものと同じようである。 日本でも縄文時代の頃から改装墓が行われていて、 今でも和歌山や愛知を始め四国や奄美・沖縄地域で残っており、地域差はあるものの似ている。 先ず第一墓地に埋葬後、何年かして掘り返し、頭蓋骨などを鎌で切り割り、第二墓地へ移葬する。 また掘り起こした骨を洗って綺麗にしてから第二墓地に埋め直す「洗骨」という習慣もあるそうだ。 これが風水によるものなのかは定かではないが、 中華圏においては南方や台湾が骨を拾って別の場所に移葬するなど風水による遺族に及ぼす運気の動向を 気にする傾向が強いのに対し、北方においてはそこまで強くないようだ。 やはり「南船北馬」、広い大陸所変われば、思想も慣習も大きく異なり面白い。

  最後に、風水が昨今話題になっているが、 風水とは実は「墓相学」から発展したものだそうである。 墓相とは老子を始めとした「道家思想」が根底にあり、春秋戦国時代に自然を尊重し、 先祖祭祀を重要視する思想が先祖の墓をどのような場所に作れば良いかという墓相学を生み出したという。 この墓相学に精通していたのが徳川家康だという。 「我が死後は先ず久能山に納め神として祀る事。葬式は増上寺で行う事。 … 一周忌後日光山に小さな堂を建てる事。そうすれば関東八州の鎮守になろう」と遺言したそうである。 自分の死に際にも子孫繁栄を墓相学に託す家康。 あっぱれ戦国の名武将である。

陸 千波 2006年4月
      
4月の講座『お茶を通した中日交流』の様子
   上段
   左:明前雲棲龍井茶
   中:杭州名物小胡桃のお菓子と松の実のお菓子
   右:生煎饅頭(上海の名物 焼ショーロンポー)

   下段
   左:種子島産さえみどり
   右:紫芋の唐芋レアケーキ

 


月夜星話(その2)

 

  5月に開催した特別講座『お茶を通した中日交流』(第二回)では、 日本と中国における釜炒り緑茶の現状を比較すべく、 熊本県山都町矢部と泉村五家荘産の青柳製釜炒り茶と、 中国江蘇省南京の南京雨花茶を取り上げて紹介させて頂いた。 よく知られているように中国においては緑茶の生産量の殆どが釜炒り茶であるのに対し、 日本では蒸し製の緑茶が殆どで、 釜炒り茶といえば今回紹介させて頂いた青柳製法と嬉野製法の二種、 生産量も緑茶全体の5%程度に過ぎない。

  このうち、嬉野茶は15世紀中頃に平戸に上陸した明の陶工達が伝えたとか、 1504年に明の紅令民という者が南京釜を持ち込んで当時南京で飲まれていた釜炒り茶を伝授した… 等といったように由来がはっきりしているのに対し、青柳茶は出元がはっきりしていない。 ただ熊本県刊行の「くまもとの茶業」によれば、 元禄年間に肥後と日向の国境にあった番所の役人が矢部馬見原の茶がまっすぐとして青柳のようということで「青柳」と命じたとか。 年号の入った記録はこれが最初とのことだが、 それ以前からこの地域でお茶が作られていたのは間違いないようで、 中国大陸から朝鮮半島を経てその製法が伝えられたという筋が有力なようだ。 ちなみに嬉野製は45度程度の傾斜釜を使い、 最後の精揉工程が省かれているので勾玉のように丸まった形状、 青柳製は平釜を主体としており比較的まっすぐと伸びている形状で、 それぞれ釜炒り特有の釜香、白ズレした葉色が特徴である。 また明治期頃までは日本全国の山間部にあった製茶法はこの青柳製法が多かったと聞く。

  このように日本の釜炒り茶、特に青柳製法を調べていく間に興味深く感じたのが、 今回の五家荘を始め、平家の落人集落と呼ばれる土地は、西日本を中心に山間部の焼畑地帯に多く、 その為ヤマチャが存在し、また意外と知られていない隠れた銘茶が製造されていたということである。

  ちなみに、五家荘とは椎原、久連子、葉木、仁田尾、樅木の五つの集落が集まった場所である。 伝説では、壇ノ浦の合戦後平清経が逃げ逃れて、 この土地の緒方実国を頼ってその娘を妻に迎えて緒方姓を名乗りこの土地に移り住んだといわれる。 またそれ以前に菅原道真の死後、一族が藤原氏追討を逃れてこの地に入り、 左座氏(しょうざし)と称して移り住んだとか。 五家荘の観光名所「平家の里」には両家の家系図、落人由来書といった古文書や兜が残され、 また久連子に伝承されている古代踊りは県の指定重要民俗文化財になっているという。 古の風情を今でも色濃く残す九州最後の秘境は秋の紅葉も又格別である。 緑色のお茶を好む大衆が増え、釜炒りから蒸し釜炒り茶にスイッチする茶業者が多い中、 手間が掛かっても昔ながらの製法を守り続ける五家荘の青柳茶。 その何煎も続く、 焦げたような釜香と懐かしい素朴な味がその土地の人々が最も愛する日常の味だという。

  また同じ青柳製法の釜炒り茶を作る宮崎県の椎葉村も平家落人伝説で有名な土地である。 この土地に逃れた平家の討伐に来た源氏方の那須大八郎宗久が平家の美しき鶴富姫と恋に落ちたという伝説が有名で、 今でもその子孫である那須家が存続していて、この土地では源氏の東言葉と平家の京言葉、 そしてこの土地の言葉が混じった一種独特の言葉が続いているというのがとても興味深い。

  そして日本三大奇橋の一つ、 「かずら橋」で有名な徳島の祖谷地区(現:三好市)も平家落人部落で、 屋島の戦いに敗れた平国盛がこの土地に逃れ住んだというが、国盛という名は系図上存在せず、 教盛の嫡子通盛の仮名ではないかと言われているそうである。 ここの平家屋敷では国盛が所持したと言われる大小二流の平家の赤旗を所蔵している。

  さらに、この祖谷地区も日本の秘境の一つに数えられ、 四国の名山・剣山を擁する四国山脈の山中にあり、吉野川の支流・祖谷川が流れる。 そして年平均気温が14℃前後、年間降水量も1600mm以上と多く、 渓谷が深く朝霧が立ちこめ、日照時間が少なめという環境、 つまりお茶の栽培としては大変理想的な環境なのである。
  そこで祖谷のお茶を調べてみるがなかなか情報らしきものがない。 現地の商工会議所などを通し、やっと辿りついたのが、西浦茶工場さんだった。 この土地柄ひょっとして釜炒り茶も作っていらっしゃるかと推測したが、 実際作られているのは「やぶ北」品種100%の上級煎茶で、有機肥料は使っているものの、 完全無農薬。 排気ガスや害虫の汚染とも無縁な好立地で、 西浦さんがお住まいの有瀬(あるせ)地区の主要産業はお茶とのことだった。 ただ、これだけ良質なお茶を生産できるものの過疎地で労力不足の為か、 こちらのお茶は静岡の茶市場に一部流している程度で、流通には乗せておらず、 殆どが口コミでお客さんが広がっているそうである。 ちなみに西浦家ではお母様の代に手揉茶を作り始め、今のご主人が茶工場を作ったとのこと。 そしてこのお母様は平家の末裔だと伺い、益々何かのご縁を感じ、 とても出来が良いと評判の今年の新茶が届くのを心待ちにしている。

  ただ、この祖谷茶の歴史ははっきりしておらず、恐らく家の垣根に植えた畦畔茶か、 ヤマチャを自家用に使用していたのが始まりかと思われ、 この辺りをもう少し調べてみたいと思っている。

  この他、高知の物部村(現:加美市)にも平家の落人集落があり、 「類聚土佐古事」に「土佐の諸山村では処々に良質の茶を多く産するが、 特に韮生郷でとれるものを大抜茶、豊永郷から出るものを碁石茶、 津野山郷で産するものを六蔵茶といい佳品である」とあるそうで、 平家の落人がことの他茶をたしなみ、宇治から茶の種を取り寄せたとか。 その後、茶道への造詣が深い長宗我部氏を始め、 茶の栽培を奨励した山内一豊の出現、明治以降は輸出用の青製(煎茶)や紅茶の生産等など、 土佐の高知では碁石茶以外にも茶の長い歴史があるようだ。 ただ、かつては東高西低と言われた高知の茶産地も、明治末期より西へ進み、 一時は三大銘茶に数えられた物部の大抜茶も今では自家用茶程度という。

  以上、五家荘を基点とし、 平家落人集落とお茶をテーマに幾つかの地域の落人伝説と茶について調べてみた。 山間部ということで、労力不足に悩みながらも、 少量でも昔ながらの良質の茶を作り続ける茶農家の方々がいらっしゃることを知り、 またその方達との出会いをとても嬉しく感激している。 ただし、これで平家の時代には既に茶の種が大陸から伝わっており、 その後山間部においては平家の末裔達が茶を広めていったケースが多いと考えるのは 少し強引な締めくくりだろうか。

陸 千波 2006年5月
      
5月の講座『お茶を通した中日交流』の様子
  お茶
  中段左:五家荘産 青柳製釜炒り茶
  中段右:矢部産 青柳製釜炒り茶
  下段中:南京雨花茶
  お茶請け
  上段箱:茶香蜜棗(お茶の香りの密なつめ)の箱
  中段左:熊本銘菓 風雅巻き(わさび大豆味)と
      手製 南京雨花茶入り桂花醤マドレーヌ
  下段左:茶香蜜棗(お茶の香りの密なつめ)

 


月夜星話(その3)

 

  お茶のことを調べ始めると、そのお茶自身の持ち味だけでなく、 その背景にある文化や歴史を学ぶことができ、本当に興味が尽きない。 6月の教室では、中国・日本の比較的標高が高く、年間降水量が多く、 朝霧が立つような理想的環境で育った茶、ということで、 中国・江西省の「廬山雲霧茶」と静岡県の「川根茶」、 徳島県祖谷地方の「有瀬茶」を取り上げてみた。 その中でも「廬山雲霧茶」を生み出した「廬山」は匡廬(キョウロ)とも言われ、 「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇異で美しきことは天下第一である)と賞賛され、 「史記」の司馬遷を始め文人墨客が愛したと言われるだけあり、 この山に関する詩歌や逸話はとても多い。

  廬山は江西省の北部にあり、九江市の南、長江の南側、中国最大の淡水湖、 鄱陽湖を東南に控え、標高1000m級の山々から成り立っている。 その断層運動による隆起作用でできたという特異な地形の為、奇岩や滝が多く、 年間降水量も1800mmを超えるという。 その環境の為、水蒸気が拡散し辛く、年間200日近く霧が発生する、 正に雲霧、仙人の住む世界といった感じである。 また、朝晩の寒暖差も激しく、芽伸びが遅く、 旨みが十分に葉に蓄積される環境で育った雲霧茶は、甘み、旨みが強く、上品な味の高級茶である。 漢の時代より、僧侶を中心に茶の栽培が始まり、 宋の時代からは天皇に献上する「貢茶」に指名されたというのも納得の行く話であろう。

  また、廬山といえば、仏教、儒教、道教、それぞれの聖地であることでも有名である。 この中の一つ、東林寺は浄土教の祖、慧遠(エオン)が創建した浄土教発祥の寺である。 この慧遠は「白蓮社」という念仏結社を結成し、約30年間この山から出ることはなかったという。 しかし、ある日、詩人の陶淵明と道士の陸修静が訪ねて来て話に花が咲いた。 見送る際、すっかり話に夢中になり「俗界禁足」の誓いを忘れ、 俗界との境界線である虎渓を過ぎたことに気がつかず、虎に吠えられてしまう。 その声を聞き、我に帰った三人は大笑いしたという。 「虎渓三笑」という話である。 これは、日中それぞれ水墨画の画題として有名で、中国各地や台湾、 日本でも雪舟、狩野山楽、池大雅といった著名人が作を残している。 ちなみに、実際には慧遠と陸修静の年齢差から考えても、 この話は作り話という説が強いそうである。

  しかし、不勉強な私にはこの話や絵が持つ本当の意味や素晴らしさを理解しきれず心許ない。 ただ、推測するに、春秋戦国時代の諸子百家により説かれた儒教や道教の教えと、 後漢時代に伝来した仏教は元々対立している教えであるが、それらが宗教の枠を超え、 儒仏道が融合していくことへの憧れの描写であり、この世俗離れした禅味を感じる画材が、 その後中国を始め、日本の水墨画や茶道を愛する人々に受け入れられていったのかもしれない。

  唐代になると、李白や白居易といった有名な詩人達が廬山の詩を数多く呼んだというが、 その中でも白居易の詠んだ「香炉峰雪撥簾看」は大変有名である。 そしてこの詩に対する、「枕草子」の著者、清少納言の功績は大きいであろう。 雪深い朝、 いつもなら巻き上げてある簾が今日に限って降りたままで外の景色を見ることができない。 そこで中宮定子は少納言に聞く。「香炉峰の雪はいかに?」と。 すると、清少納言は黙って簾を上げたという。 その行動に中宮は満足したと聞く。 つまり、この頃の知識人は競って漢詩の世界を学び、たしなんだというが、 こういった中宮の知性を問われる気の利いた質問にも即座に答えられるのは、知識人ゆえであり、 学びたい姿勢である。

  ちなみに白居易といえば無類の酒好きで酒に関する詩が多いのが有名であるが、 また、お茶もこよなく愛し、お茶に関する詩が多いだけでなく、 実際に自分の隠居生活を送った草堂の近くに茶園を作って、 客人にお茶を振舞ったというから驚きである。 ただ、この時代なので、茶は飲用としても用いられたが、 薬としての役割も大きかったようである。 同じ頃日本でも遣唐使により茶は伝えられ始めていた時期ではあるが、 清少納言の口にも茶は入っていったのだろうか?
  また枕草子の中には、

     「削り氷(ひ)にあまずら入れて、あたらしき金碗(かなまり)に入れたる」

という記述があるという。 あまずらとは甘葛と書き、蔓草の一種であり、 この蔓草から取った甘味料も「あまずら」というそうである。 つまり、氷にシロップをかける、 今で言うみぞれのようなものを清少納言は食べていたことになる。 砂糖が日本に伝わる前の話である。 そんな中、団茶を崩して煎じた煎茶を飲む機会もあったのだろうか?  当時、今の麦茶の原型である、 麦焦がしのようなものを湯で溶いて飲む物はあったそうであるが、 中国の文人達に憧れを持った彼女達のことだから、 きっとどんな飲み物であろうと文人のような気分で、 あれこれ討論しながら楽しんでいたことであろう。

  最後に、廬山といえば宋の時代の詩人、蘇軾(蘇東坡)の詩「題西林壁」であろう。

     横看成嶺側成峰  (横より見れば嶺を成し 側らからは峰となる)
     遠近高低各不同  (遠近高低それぞれ姿が違う)
     不識廬山真面目  (廬山の本当の姿を知らないのは)
     只縁身在此山中  (ただこの身が山中にあるからであろう)

この詩の中の「不識廬山真面目」というフレーズは 中国人であったら知らない人はいないというほど有名だという。 物事を近くで見すぎると漠然として判らないことも、 離れて客観的に見ると理解できることの例としてよく使われるという。 日本においても同じ意味や、 極めて複雑な真相の例えとして「廬山の真面目(シンメンモク)」という諺があるというが、 余り使われていない気がする。 中国語では「真面目」は「物事の本質、本当の姿」を意味するが、 日本語では「マジメ」と読むのが普通で、 「シンメンモク」と読むと中国語同様「真の姿」という意味と、 「マジメ」という両方の意味を兼ね備えるようだ。

  ただ、この祖谷茶の歴史ははっきりしておらず、恐らく家の垣根に植えた畦畔茶か、 ヤマチャを自家用に使用していたのが始まりかと思われ、 この辺りをもう少し調べてみたいと思っている。

  中国から日本に伝わった四文字熟語や諺などは数多くあれど、 それを漠然と使わずにその成り立ち、背景を良く理解して使うと益々言葉の持つ楽しさに浸れ、 教養を高めることができ、古の文人達に少しは近づけるかもしれない…。 日々是学習哉?

陸 千波 2006年6月
6月の講座『お茶を通した中日交流』の様子 
上段: 左:廬山雲霧茶   右:大根パイ(手製)
下段: 左:川根茶(冷茶) 
    中:清水屋 黒大奴(くろやっこ)
    右:胡麻抹茶そばボーロ(手製)
        

 


月夜星話(その4)

 

  これまでの教室を通し、また様々なお茶に触れる機会が増えるに従い、 ここ最近の自分を含めた消費者側の日本茶へのニーズの変化やそれに対する茶業者の方々の動向を感じることが多くなった。 それは品種茶への関心の高まりである。

  中国茶はご存知、その製造法、発酵度(酸化度)の違いで、 緑・青・紅・黒・白・黄茶と大きく分けて6つに、そこに再加工茶として花茶などが加わる。 しかし種類こそ多いが茶名を見ると、産地がどの辺でどの時期の、 どんな系統の味や特徴を持っている茶かということを表していることが多いようだ。

  また品種の数は登録されているものだけでもざっと300、 人によっては1000とまで言われ、品種ごとの持ち味まで理解することは到底できない。 ただ、品種名そのままが茶名になっているもの(例えば龍井茶や、岩茶の大紅袍、白鶏冠、 鉄羅漢、水金亀など)や出元がはっきりしている茶(例えば金萱茶といえば台茶12号、 翠玉茶といえば台茶13号のように)などが多く、比較的購入し易い。 勿論下級茶においては、品種や産地が違うものをブレンドして「烏龍茶」として販売しているようなケースも多く、 また大陸の緑茶のように品種も種類も多すぎて特徴の違いを理解しきれない茶が多いのも現実である。

  これに対して日本茶はどうだろう?  日本茶といえば8割方は緑茶で、その中でも製造法により、蒸し製の煎茶が大半を占め、 その他玉露、かぶせ茶、碾茶(抹茶の原料)、蒸し・釜製玉緑茶、番茶と別れ、 再加工茶として焙じ茶や玄米茶、仕上げの際に篩に掛けられた茎茶や粉茶があるといった具合である。そして茶の銘柄も茶商独自でネーミングしていることが多く、産地は判ってもどの地域のどの品種の茶を使っているかをはっきり表記しているお茶屋さんは少ない。そのお茶屋さん独自で選別したオリジナルブレンド商品が多いからである。勿論、100g1500円くらいのお茶になれば、産地や品種がはっきりとしたブレンドされていないものを購入することもできる。

  しかし「品種は何を?」と尋ねると、「やぶきたです」と返ってくるのがオチ。 それもそのはず、「やぶきた」は耐寒性、耐病性に優れ、広範囲で栽培できる優良種なので、 日本において全茶園面積の約8割が「やぶきた」というモテぶり。 味の違いは土地の気候や土壌といった環境と製造法の違いなのである。 例えば今回の狭山茶は北の平地のお茶で、 冬の寒い時期に葉中に旨みをしっかり貯蔵するので関東人好みのしっかりした味で仕上げの火入れが強いのが特徴だとか、 太陽の光をしっかり浴びた南のお茶は比較的葉のよりがゆるくホンワカした味だとか、 寒暖差の激しい山側のお茶はよりが硬く、旨みも強いが苦渋味もはっきりしたドライな味だとか…。 つまり、日本茶の世界において、 やぶきた以外にも50種以上存在するそれぞれの持ち味を持った品種茶も単独で流通にまわせる程量産ができておらず、 品種茶にこだわる茶商の店で購入できれば幸い、 味の調整役としてブレンドされてしまっていることが多いのが現実なのである。

  そんな中、「やぶきた」一辺倒への危惧が高まり、 オリジナリティを求め「やぶきた」以外の品種茶の苗を育てる茶生産家が増え、 それらの研究育成してきた品種茶が販売レベルまで少しずつ近づいてきたようである。 今回の「OZONE夏の大茶会」でも一番元気だったのが、 静岡の地域茶、静岡産の品種茶ブースだったように思われる。

  静岡ブランド「香駿(こうしゅん)」のすすり茶を体験できるコーナーや、 「香駿」単独の販売をしている業者がいくつかあったことがとても印象的だった。 この香駿とは平成12年に静岡で「くらさわ」と「かなやみどり」という品種を親に選抜育成された比較的新しい品種で、 駿府(静岡県)で育成された優れた香りに特徴があることからこのように命名されたという。 ただ、このすすり茶だと旨みの中にきりっとした苦渋味は感じるが、 その芳香は余りはっきりとは感じられないのが残念だった。 しかし、以前もっと高い温度で淹れてみた時は、紫蘇というか、 桜餅のようなハーブに近い優しい香り、ドライですっきりした味だった。 従来の旨み重視の日本茶の味わいとちょっと趣を異にしたハーブ系の綺麗味の品種茶はかなり注目されていきそうな気配である。 また、同じ桜の香り系の新品種「静7132」(正式には「さくらかおり」と登録されたようだ)や 台湾の金萱茶と似て異なるミルキーな香りがする「かなやみどり」も私個人としては紹介していきたい女性向きのアイテムだと思う。

  今回の狭山産の包種茶「てふてふ」を提供して下さった比留間園さんの茶園は、 「やぶきた」半分、香りに特徴があり、 丈夫といわれる埼玉県育成品種「さやまかおり」や「ふくみどり」や前述の「香駿」などで半分を占めているという。 そしていずれは「やぶきた」の育成を辞めたいとか。 日本茶は香りが薄いと言われる中、その土地の品種と品種が持った香りを愛し、 その香りを生かす萎凋による製造を模索する彼のような存在を是非とも大切にし、 彼らが開発したような新しいタイプのお茶が広まっていくと日本茶の世界ももっとバラエティに富んで楽しく、 幅広い層で受け入れられるようになっていくと信じている。

陸 千波 2006年7月


7月の講座『お茶を通した中日交流』の様子 
 上段) 埼玉県吉川産なまずせんべい(黒米味、味噌味)
 中段) 左:クラッシュ杏露酒ゼリーのせ愛玉ゼリー
     右:川越産芋松葉
 下段) 左:南港包種茶
     右:狭山産萎凋釜炒り茶「てふてふ」
      (品種:ほくめい)
        

 


月夜星話(その5)

 

  5月の中日茶文化交流で取り上げた「南京雨花茶」。 前回の帰省の際、美味しい雨花茶が手に入ったのでご紹介させて頂いたが、 南京は未踏の地、一度は足を踏み入れたいと思っていた土地だった。 とはいえ、今回の帰省は8月のお盆の真っ只中、つまり終戦記念日前後。 且つ、南京と言えば、言わずと知れた「中国の三大火釜」の一つで、猛暑であることに間違いない。 そんな問題を抱えて子連れ旅行をすることに最後まで迷い続けたが、 知人の伝で安心できるドライバーと宿泊先を確保できたので、思い切って出掛けてみる事にした。

  上海から快速列車で約3時間。 日本の新幹線とほぼ同じ面持ちの綺麗な列車の車内では、電光掲示板が車外温度を表示する。 30度ちょっとからカウントし始めた車外温度も、南京に着くころには44度に。 蜃気楼は見えないまでも、熱い空気で肌がピリピリと痛い感覚、初めての感覚だった。 そんな中、ドライバーと相談し、総督府、夫子廟、中山陵、玄武湖など主要観光名所を周ったが、 私が「南京雨花台風景区」に行きたいと言うと、よっぽど一般的な観光名所ではないのか、 「何故行きたがるのか?・・・」と、とても不思議そうな顔をしていた。

  また品種の数は登録されているものだけでもざっと300、 人によっては1000とまで言われ、品種ごとの持ち味まで理解することは到底できない。 ただ、品種名そのままが茶名になっているもの(例えば龍井茶や、岩茶の大紅袍、白鶏冠、 鉄羅漢、水金亀など)や出元がはっきりしている茶(例えば金萱茶といえば台茶12号、 翠玉茶といえば台茶13号のように)などが多く、比較的購入し易い。 勿論下級茶においては、品種や産地が違うものをブレンドして「烏龍茶」として販売しているようなケースも多く、 また大陸の緑茶のように品種も種類も多すぎて特徴の違いを理解しきれない茶が多いのも現実である。

  実際に出向いてみると、そこは、約1000ヘクタールの広大な土地の中に、 「烈士陵園区」、「名所旧跡区」、「遊楽活動区」、「雨花石文化区」(建設中)、 「雨花茶文化区」(建設待ち)、「生態密林区」(建設待ち)の6つの区に分かれていて、 車で移動しない限り自力で見て周るのは到底困難と思われた。 ちなみに、雨花台はかつて国民党政府による共産党員の処刑場があった場所であり、 革命烈士たちの陵園であるが、それと同時に、特に明、清時代からの名所旧跡や博物館が立ち並び、 江沢民前国家主席により「全国青少年教育基地」に指定されるほど。 つまり愛国主義を学び、現代と過去の南京を知る為には恰好の「国家AAAA級旅遊景区」、 総合観光施設なのである。 尚、「雨花台」の名前の由来は諸説あるようだが、 今から1400年前の南朝の頃、高僧雲光法師がここで壇を設けて説法を行った所、 天の神様が感動し、雨のように花を撒き散らしたという伝説があるそうだ。

  ということで、時間に限りがあった我々は、風景区の中でも、 茶に関する施設のみピックアップして周ることにした。 先ず、「名所旧跡区」内の「江南第二泉」と「二泉茶社」へ。 かつて陸羽を始め幾人かの茶の研究家達は茶を淹れる水に適した泉を評価し、 「天下第一泉」、「天下第二泉」・・・と定めた。 面白い事に第一泉は鎮江であったり、廬山であったり、北京であったりと人により評価が分かれるものの、 第二泉に関しては無錫の恵山寺というのが皆共通している。 ということで、楊先生の教室の中でも、実は第二泉の無錫の水が一番水質の良いものなのでは・・・ という話が出たものである。 しかし、ここは「江南第二泉」。 ほとんどその名前を知られていない小さな泉は、 南宋の時代に詩人陸游が建康(今の南京)に立ち寄って雨花台を観光した際、 この雨花泉の水で泡茶した所、とても甘くて美味しかったので「江南第二泉」と名付けたと聞く。 今は泉も枯れはて、過去の姿を知る由も無い。

  更に、この泉の背後には百年の歴史を持つ老舗「二泉茶社」がそびえ建ち、 中では手摘みと機械摘みの雨花茶が飲めると言うことで早速中に入ってみた。 ここは2001年に改装したばかりということで、内装も趣があり、 広々としてなかなか素敵な茶館であった。 が、この時は何よりも暑さ避けに最適な離れがたい場所だった。 そこで、ひまわりの種をお茶請けに、手摘みと機械摘みの二種類の茶を注文してみた所、 確かに手摘みは見た目に葉が揃っていて美しく、機械摘みは大葉が混ざったものだったが、 商品のはけが悪いのか? 手摘みは水色が劣化した茶がかった色で、 機械摘みの方が透明感のある青々とした新茶といった感じだった。 ちなみにここで扱う茶葉は、同じ敷地内で建設途中の「雨花茶文化区」で購入できるということだったので、 更に足を進めることにした。

  茶文化区に足を踏み入れてみると、「鑑賞茶園」という名の通り、自由に茶園を見学することができた。 見た目は日本の茶園ほど蒲鉾型に整理されていないものの、良く似た低木の茶樹が一面に並んでいた。 その後、隣接している工場を覗いていると、その工場長が事務所に通して下さった。 そして事務所の中で青々と美しく白毫がいっぱいの雨花茶を淹れて、色々なお話を聞かせて下さった。 ちなみに南京では、 4世紀頃から飲早茶(モーニングティー)として茶を飲む習慣があったと言われているが、 江蘇省の管理下で1959年からこの「雨花台風景区茶場」にて製造されるようになった「昊月杯雨花茶」が、 正式な「南京雨花茶」だと仰っていた。 そして生産された茶葉のほとんどは幹部や市政府関係の役人などの贈り物として使用され、 実際に流通に回るのはほんの一握りのものらしい。 なので価格も高く、特級のお茶で一斤(約600g)当り2000元(3万円)もするとか。 記念に50g150元で販売して頂いた。

  実際に工場で説明を伺うと、その値段でも止むを得ない気がした。 というのも、そこで扱う茶葉は有機肥料、無農薬栽培が基本。 手もみ茶用には柔らかい一芯一葉を手摘みで、機械もみ用にはもう少し下の三葉辺りまで機械で摘み、 春は2時間、秋は30分~1時間ほど萎凋させる。 それを消毒室で全身消毒した人が、手もみなら丸釜で、機械もみなら殺青機で殺青させる。 この丸釜は電気釜ではなく、釜の後ろから薪で火をおこし200度程度の高温の釜底で、 手慣れた職人達が殺青するのである。 そして温度を変えながら何度も揉捻していくが、ここで面白いのが、 碧螺春などは片手で茶葉を押し付ける感じで揉むので、白毫で覆われているが、 雨花茶の場合は、日本茶のように両手で縦にすりすりと揉みこむような作業をするので、 白毫は中に入り込んでいるそうである。 もう一つ、ここの工場で興味深かったのが、殺青機である。 機械揉み用の茶葉を殺青機のドラムに入れると、殺青後、 殺青機の後ろの穴から下の穴に茶葉が落ち、穴の中にある扇風機が回って下の穴から地上に葉を吹き上げる。 この時の葉が落ちた場所によって葉の中の水分量を確認し、台の上に落ちれば合格、 手前に落ちるのは水分が多く重過ぎ、先まで落ちないのは軽すぎるという判断らしい。 ただ、実際には機械が作動していなかったので、完全に理解できたわけでは無いが、 手が掛かっているゆえに値段が高く、見た目に美しく美味しい高級品だということは良く判った。

  茶文化区に足を踏み入れてみると、「鑑賞茶園」という名の通り、自由に茶園を見学することができた。 見た目は日本の茶園ほど蒲鉾型に整理されていないものの、良く似た低木の茶樹が一面に並んでいた。 その後、隣接している工場を覗いていると、その工場長が事務所に通して下さった。 そして事務所の中で青々と美しく白毫がいっぱいの雨花茶を淹れて、色々なお話を聞かせて下さった。 ちなみに南京では、 4世紀頃から飲早茶(モーニングティー)として茶を飲む習慣があったと言われているが、 江蘇省の管理下で1959年からこの「雨花台風景区茶場」にて製造されるようになった「昊月杯雨花茶」が、 正式な「南京雨花茶」だと仰っていた。 そして生産された茶葉のほとんどは幹部や市政府関係の役人などの贈り物として使用され、 実際に流通に回るのはほんの一握りのものらしい。 なので価格も高く、特級のお茶で一斤(約600g)当り2000元(3万円)もするとか。 記念に50g150元で販売して頂いた。

  ちなみに現在は茶園と工場だけの「雨花茶文化区」だが、2008年には雨花茶茶芸坊や茶楼、 そして現在使用している機械が陳列される博物館もできあがる予定だそうだ。 南京に旅行する予定がある茶迷の方!  2008年まで待って行かれたら如何でしょうか?

陸 千波 2006年9月



南京雨花茶の茶畑


南京雨花茶の飲み比べ

 


月夜星話(その6)

 

  去る9月23日、楊先生主催の初めての試み、 「茶芸珍蔵展」が馴染みのアルテサーナさんのギャラリーをお借りして開催された。 何分初めての試みで、「暗中模索」とまでは言わないまでも、 皆さんからどんな思い入れのある茶器類を出品頂けるのか、期待と不安を胸に抱きながら、 「中国茶のある生活」というテーマを頼りにイメージを広げてみることにした。

  先ずは会場の設営からである。今回の配置は、「中国茶のある生活」をイメージしたメインテーブル、 そして皆さんのコレクションを陳列するスペース、茶芸のデモストレーション及び試飲するスペース、 そして僅かながら上海で探してきた幾つかの物品の販売スペースに分けられたが、 これらをどうブース分けするのかで頭を悩ませた。

  時は9月。9月といえば、9月9日の「重陽節」。 また、10月6日の「中秋節」を目前に控えていたので、“中国的お月見茶会”ということで月や兎、 そして重陽節のシンボルである菊をモチーフにしたメインテーブルを作り上げることにした。 全体のイメージカラーは生成、茶、そしてグリーンといったアースカラーでしょうか?  予算の許す範囲内で、生地やドライフラワー類を探し、 後は自前や会員の皆さんのお茶関連グッズをお借りしての愛着のある、手作りディスプレイとなった。

  特にディスプレイ兼、お茶請けの月餅作りまで担当された新谷さんのセンスの良さは光っていたが、 月餅作りにおいては気温や湿度の条件も難しく、とても苦労をされたことと思う。 その中でアートフラワーのモスグリーンの菊が、 従来の菊人形や仏事で使う鮮やか過ぎる菊のイメージを取り払う、落ち着きのある可愛らしい丸い形で、 さりげない主張がとても良かったと思う。 (ちなみに、この菊の名前はその形状から、「ピンポン菊」とか「ピンポンマム」、また、 テニスボールに似ているからか?  「ボリスベッカー」などというテニス選手の名前までもついているようです。余談ながら・・・)

  そして何より皆さんからの思い入れのある茶器達だが、 お一人で三品も四品も用意して下さる方もいて、場を華やかに盛り立てて下さった。 まだ使い始めたばかりで若々しい茶器から、先生の教室と共に成長した、 茶渋がいっぱいで年季が入った十年選手の茶器もある。 中国結びをつけてお澄まししている茶器、急須の内側に絵が彫ってある凝った茶器、 どんな味のお茶が淹れられるのかとても興味を覚える玉でできた茶器、 台湾の故宮博物館で購入された豪華絢爛でとても素敵なのに何故か深い茶漉しがついた蓋碗など等・・・ 想像以上にバラエティーに富んだ茶器の数々。 そして茶器以外にも、日本文化を一生懸命学ぶ茶芸館の主人の姿に感銘して購入したという酒器や、 大事に育てているお茶の木、 研究会で作成したアートフラワーの作品や会員の皆さんで参加した九州のお茶のツアーの写真等、 中国茶が広げてくれた人の輪を感じられる物たちが、幾つも並べられた、思い入れたっぷりの “CHINA TEA WORLD” がそこにあった。

  ちなみに、今回展示された茶器は、宜興の土を使った、紫砂茶壷を始め、朱泥の茶壷、磁器製の蓋碗、 ガラス製のポットなどだったが、中国茶器が使われるようになったのは、何時頃からだろうか?  簡単におさらいをしてみると・・・。

  もともと薬だった茶が喫茶として広く嗜まれるようになったのは、唐の時代からである。 この頃は「餅茶」と呼ばれる固形茶を炙ってから、 茶碾にかけて細かくしたものを沸騰した湯の中に投じて煮出し、その上澄みを茶碗に入れて飲まれていた。 この頃使ったと言われる青磁の茶碗が西安の法門寺で出土された話は記憶に新しい。 それが、宋代になると、茶碾で細かくした茶葉を茶碗に直接入れて、 湯を注ぎ、茶さじや茶筅で泡立てて飲むようになるのである。 この頃重宝されたのが、茶の水色を美しく見せると言われるシンプルな天目茶碗や青磁、白磁である。 しかし、明代になり、朱元璋により固形茶の廃止、散茶が推奨されるようになり、 茶器の形もがらりと様変わりするのである。茶壺の登場である。

  茶壺の中でも、景徳鎮の青花磁はそのオリエンタルなフォルムに特に海外での評価が高かったが、 茶壺といえば、やはり紫砂茶壺であろう。 この紫砂茶壺の何が素晴らしいって、やはりその土の成分がなしえる優れた機能であろう。 もともと宜興の土は鉄分が多く、気孔性に富んでいると言われる。 先ず、深さ50M以上の地下から掘り出した土は砕かれて、三年ほど寝かせて風化を進めるそうである。 この土に水を加え、粘着力が増して出来た陶土で茶器を形作り、 釉薬を付けずに1200度以上の高温で焼き締めするのである。 この陶土には目に見えない無数の気孔があるそうで、吸水性が高く、保温性も高く、 この気孔がお茶の雑味を取り、お茶をまろやかな味に仕上げてくれると言われる。 なので、焙煎が強い、発酵が進んだお茶に向くといわれるが、 その反面、香りを主に楽しみたい場合は、急須自体が全体の二割ほど香りを吸ってしまうので、 香り重視の花茶や発酵度の低めの若々しいお茶には向かないとも言われる。

  そういったお茶に向いているのは磁器製の急須か、蓋碗であろう。蓋碗は清の時代から、 それぞれがお茶を楽しむ習慣に従って使われるようになったという。 磁器で釉薬を塗ってあるので、香りも飛び難く、お茶の葉を選ばないと言われる。 湯のみとしても、急須としても使える利便性の高い万能選手なので幾つかあると便利だとは思うが、 お茶の味のまろみや深みといった点ではどうだろうか?

  いずれにしても、その季節、その日の体調や気分によって自分の為、 人の為にお茶の葉を選ぶことはとても楽しく、気持ちや生活にゆとりを与えてくれることだと思う。 そして、更に、同じ茶葉でも、その状態により茶器や温度を変えたり、何か加えてみたりすると、 お茶の味も七変化し、そのお茶自体の持ち味、特徴が判り、新たな発見、 新たな感動を与えてくれることでしょう。 茶葉も茶器も活きていて、手のかけ方しだいで色々な輝き方をしてくれるのである。 そう思うと、養壺することも更に楽しく、それぞれの茶器が更に愛おしく、 益々こだわりのお茶生活が始まることでしょう。

陸 千波 2006年11月



茶芸珍蔵展におけるメインディスプレイ<中国茶のある生活>


(月夜星話は、2006年4月~12月の楊品瑜主宰中国茶芸教室用のコラムから転載です。)