注 意 :
『台湾茶の歴史』は、楊の 著書 を元に、加筆・修正したものです。

 
 


 
 
茶的故事 

 台湾茶の歴史

 其の二 台湾茶業の発展

 
  中国茶全体の歴史に比べて、台湾茶の歴史は意外と短いです。 明末清初から数えてせいぜい3百余年ぐらいでしょう。 以下、台湾茶業の発展経過について、清朝領有時代(1683~1895)、 日本植民地統治時代(1895~1945)と中華民国在台時代(1945年以降)の三期に分けて説明します。

(1)清朝領有時代(1683~1895)
●台湾野生の茶樹
  中国の南部では唐の時代から茶を飲む習慣がありましたので、 明末清初、福建、広東から台湾に移住した漢人が茶を飲む習慣を台湾に持ち込むのは当然のことです。 当時、台湾にも野生の茶樹がありましたが、移民が飲む茶葉は大陸から仕入れてきたものか、 または台湾で栽培したものであり、野生の茶葉は使っていなかったようです。

  康照56年(1717)の『諸羅県志』の雑記志外記に、「水沙連内山に茶が甚だしい、 色緑で松羅(松の木にからむかずら)のようである。 しかし、山高くそそり立ち、谷深く、道は険しく蕃人がいるので、漢人は恐れて採取できない」との記載があります。 諸羅県は現在の嘉義県にあたりますが、水沙連内山は南投県の管轄になっています。

  黄叔璥著『赤嵌筆談』(乾隆元年、1736年刊行)および藍鼎元(680~1733)著『東征集』の水沙連記にも似たような記載があります。 また連雅堂著『台湾通史』(1918)によると、「野生の茶の木は前から有ったが、 当時の原住民には茶の効用が知られていなかったため、特に栽培していなかった」とあります。 台湾の野生の茶の木は枝が少なく高さが10~20メートルほどにもなる種で、 中国や日本で栽培されている中国種と異なるアッサム種です。 日本のやぶ椿に似ているそうです。

● 製茶工場の設立
  『諸羅県志』によると、鄭氏王朝の時代(17世紀後半)、大量の軍隊を養うために農業が奨励され、 その一環として茶の栽培が行われていたようです。 17世紀末から18世紀初め頃には、何朝という商人が福建省の武夷山から茶の苗を持ち帰り、 台北県金山の鯽魚坑(鯉魚坑または香坑という)で栽培したという記録があります。 当時は、茶の香りが弱く、茶のブレンド用に茉莉(ジャスミン)、素馨(ジャスミンの一種)、 楯子(くちなし)の花も、艋舺、大龍洞で盛んに栽培されていました。 茶の職人は、安渓から多く来ていました。貧しい家庭の婦女は茶摘みで生計を立てて、 茶屋は20~30軒あったそうです。

  最初に台湾産の茶葉を世界に輸出したのは、イギリス人のジョン・ドットとされています。 彼は、1865年に樟脳の買い付けで台湾に来たのでした。 ドットは探検家でもあったので、通訳の李春生と台湾の山林に探検旅行に出かけ、野生の茶の木を発見しました。 ドットはのちに台湾に「洋行」(貿易商社)を設立し、 1867年にマカオに茶を試験的に輸出し、三倍の利益を得たといわれています。 その後、彼は艦岬に製茶工場を設立し、アメリカ向けにフオルモサティーとして輸出し始めました。

  台湾には「一府、二鹿、三艋舺」という諺があります。 この諺が示すとおり、台湾の発展は一が台南、二が鹿港(彰化県にある)、 三が艋舺(台北市の龍山区一帯)という順に栄えていました。 艋舺はのちに、反外国人のグループの焼き討ちにあったため、 政府の政策で大稲埕(現在の台北市延平区一帯、名の由来はこの一帯に穀物を干す大きな広場があったという)に移転しました。 他の商社もここに移ったため、大稲埕は一大商業地帯として発展しました。

  大稲埕は台湾史上に残る「二・二八事件」(1947)という大惨事の発生地であるため、 現在は有名になってしまいます。事件発端の場所は大稲埕圓環近くの「天馬茶坊」という茶店の前でありました。

  李春生はドットの工場を譲り受け、さらに茶業の発展に貢献しました。 このため、李春生は「台湾茶の父」と呼ばれています。 また、彼が茶園開発を手掛けたのが烏龍茶であったので、「鳥龍茶の父」とも称されています。

● 茶館の登場
  洋行や茶行が次々と誕生するにつれて、「茶館」も登場しました。 茶館は現在では茶を飲むところとして知られていますが、もともとは茶の農家から茶葉を買い上げ、 ブレンドを行うところで、「箱茶」を専門に扱っていました。 箱茶とは輸出用の茶のことで、当時は木箱に入れて輸出されていたため、箱茶と呼ばれたのです。 また、茶館は包種茶の登場後、烏龍茶を専門に扱う茶館を「蕃荘」、 包種茶を専門に扱う茶館を「舗家」と呼び分け、両方を同時に扱うところは「鳥龍包茶館)」と呼ばれていました。

  清代末と日本統治時代には厦門(アモイ)では、包種茶が人気の茶となり、台湾茶の主な輸出先となりました。 ちなみに、厦門で包種茶を主体に扱う茶行は「茶幇」と呼ばれていました。

  この頃の茶業では「媽振館」も重要なポストを占めていました。 「媽振館」は英語“Merchant”の当て字で、商人の意味です。 主な業務は、茶を担保にした茶館への金銭の貸し付け、茶行や洋行にその茶を宣伝販売することです。 茶行と似た業務もありますが、資金の薄い茶館には金銭の貸し付けや販売業務の窓口にもなっていたのです。 金銭貸し付け業務は、「銭荘」(高利貸し、匯兌館とも呼ばれています)から資金を調達したり、 茶を担保に売り掛けたりすることですが、今で言うコンサルタント業務も行っていました。 時代の流れに伴って業務は変化していったようですが、今はもう存在していません。

  このほかに「茶販」と呼ばれる業者があります。 茶農家から茶葉を買い上げ茶館に売る仕事を主にしていました。 茶葉の運搬には、「脚人」(飛脚)と呼ばれる人たちが雇われていました。 そして、脚人は給料制の場合もありましたが、茶販と農家の仲介者になることもありました。 つまり、資金を茶館や茶棧から借りて、農家から茶葉を買い上げ、 それを茶館や茶棧に売って中間手数料を儲けることもできたのです。 茶棧は本来、山から運んできた茶葉を保存するための倉庫業でした。 のちには茶館の業務も兼ねるようになっていきました。

  李春生が活躍していた頃、巡撫(清末の台湾知事)劉銘博(1836~1895)は、茶の生産と販売を組織化し、 茶業の保護と品質改善に努めた人でした。 スリランカから技師を招いたり、インドからアッサム種の苗を取り寄せたりしましたが、 初期には茶農家が知識不足のため反対に遭いました。 しかし、輸出市場も積極的に開拓し続けた結果、1865年に80トン余りの茶を輸出し、 1893年には約900トンに達しました。

(2)日本植民地統治時代(1895~1945)
  1895年、日清戦争(中国では「甲午戦争」と称す)の結果、清朝が敗れて台湾および澎湖群島を日本に割譲しました。 それ以降、日本は台湾を植民地として1945年まで統治していました。 この50年間、日本政府は台湾総督府を通じて台湾で高圧的な統治政策を行っていました。 しかし、日本政府は台湾を自国領に編入した後、台湾に近代的諸制度を導入すると同時に、 台湾の産業発展とインフラの整備を推進しました。 その一環として茶の栽培、製造、販売なども奨励され、著しい発展を見せました。

  1901年(明治34年)、台湾総督府は茶樹栽培試験場を設立し、 品種の開発、製茶機械の開発、茶業人材の育成、茶の輸出と販売などに力を入れました。 世界各地で開催された博覧会に出品して、試飲できる台湾茶喫茶店をつくったほどです。

  1903年(同36年)に製茶試験場が設立されたが、1910年(同43年)、台湾総督府は紅茶の生産を促進するため、 製茶試験場に代わって日本台湾茶株式会社を設立し、その設備が無償で貸し付けられました。 日本台湾茶株式会社は、後に合湾拓殖製茶株式会社に払い下げられました。

●高まる台湾茶の名声
  大正時代になると、台湾茶の最大輸入国のアメリカが粗悪不正茶輸入禁止令を発布し、 産地別標準茶を決定し、輸入検査を施行するようになりました。 台湾産には粗悪品は少なかったのですが、台湾総督府は1923年(大正12年)に厳しい台湾茶検査規則を告示し、 輸出茶の品質及び包装の基準を定めました。 同年に台湾茶検査所を台北の港町に設置し、総督府は毎年標準茶を決定し、 それより下のものは輸出禁止としたのでした。 このため、台湾茶の名声は海外市場において日に日に高まりました。

  また、総督府は茶の栽培を奨励するため補助金を出したり、製茶機械を無償で貸し出したり、 機械製茶指導のため巡回指導員を数名派遣したりしていました。 機械製茶により、台湾紅茶は世界に通じる品質に達し、台湾茶全体の生産量も大幅に増えました。 また、同12年には台湾茶共同販売所(組合)が設立され、組合員のフォローや経費の一部補助を行いました。 しかし、第二次世界大戦の時期、日本がアメリカと開戦した後、 台湾紅茶の最大の輸出先だったアメリカがジャワ紅茶に奪われました。 台湾総督府はインドのアッサムなどから品種を移植し、品種配合、品種改良を行いましたが、 結局、台湾紅茶は衰退の道をたどることになりました。

● 台湾茶喫茶店のオープン
  井出季和太著『台湾治績志』によると、総督府は台湾茶の輸出販売を促進するため、 1906年(明治39年)、ロシアやトルコに調査員を派遣し、 翌1907年、トルコに台湾産茶のサンプルを、アメリカには鳥龍茶や紅茶を、ロシアには紅茶を送りました。

  同年、総督府はアメリカのゼエームスタウン博覧会内に台湾喫茶店を開設し、 日本人女性をウエートレスとして派遣し、来客は8万人にのぼりました。 当時のアメリカはインド茶、セイロン(現スリランカ)茶や中国産の茶が主流で、 台湾茶はまだ、知られていなかったのです。 1908年にはペトログラードの博覧会に出品、翌年にはイギリスに烏龍茶のサンプルを送り、 アメリカのアラスカユーコン太平洋博覧会に台湾茶の喫茶店を開設しました。 当時アメリカで台湾茶の最大需要地だった東部に、美人画の看板とハガキを配布して好評を得ました。 1910年には、日英博覧会に台湾喫茶店を開設し、翌年にはロンドン中心に烏龍茶のサンプルを配り、 ロンドン各地に台湾茶の常設喫茶店を経営しようとした野沢組に資金援助をしました。

  アメリカは台湾茶最大の得意先になりましたが、他国との国際競争が次第に激しくなったので、 総督府は烏龍茶を台湾茶喫茶店および各種団体に配布し、 対ロシアの紅茶販売促進のために日本台湾茶株式会社に補助金を出しました。 また、1914年(大正3年)にはイギリス、アメリカ両国に広告用の博多人形や唐草模様のハガキを送付しました。 同年スマラン博覧会に台湾喫茶店が開設され、翌年にはアメリカで邦人経営の茶店に、 鳥龍茶の販路拡張の補助金が出され、その後も奨励金が出されていました。

  日本国内においては、1910年(明治43年)三月に東京勧業博覧会、名古屋の関西府県聯合共進会が開かれ、 九月には前橋の関東東北一府十四県聯合共進会に台湾館の中に台湾茶喫茶店を併設する形で、 台湾茶の宣伝を行いました。 また、1911年四月には大阪の第三回全国製品博覧会に出品され、1912年(大正元年)の上野公園内の拓殖博覧会、 大阪拓殖博覧会、翌年の東京明治記念博覧会の展示場にも台湾茶宣伝のために喫茶店が開設され、 新聞や雑誌にも広告を載せました。 ちなみに、1906年(明治39年)、東京の銀座に常設の台湾茶喫茶店がオープンしました。 これが銀座の喫茶店の元祖だといわれています。

(3)中華民国在台時代(1945年以降)
  台湾茶史全体から見て、 日本統治時代までの茶産業の成長や一時的なブームは必ずしも台湾全体の利益を高めることはできませんでした。 輸出を手がけた外国商社や日本政府の利益にはつながりましたが、 栽蓄展家にはほどほどの利益がもたらされた程度でした。 ですから今日に至っては、茶業を手がけた商社や日本政府をほめたたえる発言や記述はあまり見かけられません。 日本が残した施設や宣伝にかけた苦労も一部の茶をよく知る人以外には、あまり知られていないようです。

  しかし、茶を通じてビジネスの方法は代々 伝わってきたのでした。 今日の台湾社会の繁栄に、時間を経て貢献してきたと言ってよいでしょう。 このため、今日の台湾の大財閥の社長には、先祖やその人自身が茶商出身という人が多いです。 代表的な有名人に、経営の神様と呼ばれた台湾プラスチックグループの会長の王永慶氏がいます。 王氏は台北県新店市の貧しい農家出身です。 父は読み書きも習えなかったため、茶畑作りや日雇の労働者だったそうです。

  第二次世界大戦によって荒廃した茶業は、戦後の復興に伴って浮き沈みはあるにせよ発展し続けてきました。 茶種の品種改良をすすめた結果、美味しいお茶を供給し続けることができたからです。 また、世界に中国茶文化を広く伝える活動が活発に行われたことによって、 中国茶の地位は回復したと言ってもよいでしょう。 かつて「一府、二鹿、三艦岬」の一府二鹿がある台南と彰化には、茶園がほとんど確認できませんでした。 しかし、最近、台湾茶が高値で国内消費されていることもあって、台南や彰化一帯でも趣味程度とは言え、 少し作られるようになっています。 これで、台湾島全県で、茶が栽培されていることとなりました。

 楊品瑜 2010.05.20






台湾茶業発祥の地「魚池」一帯の茶畑