静岡茶の茶歌舞伎を体験した。
これは、事前に「花」、「鳥」、「風」、「月」の四種に分けられたお茶の説明書が配布され、
それでお茶の特徴を理解した後、実際に試飲して一番目から順に「花鳥風月」の札を選び、
廻ってきたボードに掛けていくという形式のものだった。
つまり、現代風にアレンジされた“大人数用のお茶当てゲーム”といった所だったが、
これがなかなか楽しく、興味が尽きない。
今回この茶歌舞伎(=闘茶)の歴史や方法、現状について触れてみようと思う。
先ず、「茶歌舞伎」とは「異風なもの」、「ふざけた振る舞い」等を意味する「カブク」が語源となったもので、
「闘茶」や「茶寄合」等といった言い方もあることは周知の事実であろう。
「闘茶」とは中国の唐の時代から始まった茶の質を評価しあう競技の事で、またの名を「茗戦」という。
宋の蔡襄の書「茶録」によれば、宋代の貢茶(龍団鳳餅)で有名な建州(現;福建省建甌県鳳凰山付近)という地で
茶農家達が公私共に大量の茶を栽培しており、そのできた茶を互いに評価しあった事が記してあることより、
闘茶とは、そもそも皇帝に献上する貢茶を用意する為に始まった競技だと思われる。
また、宋の唐庚の「闘茶記」によれば、「政和二年三月に二三人の君子が闘茶をした」という記録があり、
この政和とは宋の徽宗皇帝(1082-1135)の年号であることより、
徽宗皇帝在位の宋の時代に盛んに闘茶が行われていたことが読み取れる。
実際、この徽宗皇帝の書「大観茶論」には茶の製造法や品質、茶の淹れ方等詳しく説明されているだけでなく、
「茶の高く静かな韻致は騒乱の時世には高尚され得べくもない」、茶は「盛世の清き好尚」とまで断言しており、
皇帝が人々の心が安定し、喫茶が受け入れられる社会作りを目指し、実践していたことが分かる。
その他、宋の范仲淹の「和章岷従事闘茶歌」においても闘茶で勝つことのこの上ない喜び、
負けることのこの上ない恥ずかしさが歌われ、宋の劉松年が描いた「茗園賭市図」や「闘茶図巻」においても
皇室から小市民に渡るまで闘茶を楽しむ姿が描かれている等、本来は茶農家達の品評会だった闘茶が宋の時代には、
皇帝や文人達だけでなく、一般市民にまで広く普及していたことが分かる。
ちなみにその闘茶の評価基準とはどんなものだったのだろうか。
これも前述の「茶録」等で知ることができる。先ず、茶の質の良さ、香り高さ等が大切なのは勿論であるが、
それ以上に水質の良さ、茶湯の水色、茶湯の表面に浮かぶ泡の立ち方に着目し、勝敗を決めたようである。
実際に水色は純白が最高とされ、お茶の挽き方、湯の注ぎ方、お茶の点て方を丁寧にすればするほど茶湯の表面、
茶杯の内側に細かい泡が長く残るので、その泡が消える迄の時間が長ければ長いほど良いとされたようである。
このように中国の宋の時代に盛んに行われた闘茶は、どのように日本に伝わっていったのであろう。
時は鎌倉時代。中国から帰国した栄西禅師が当時の中国式の点茶法(抹茶の始まり)を伝えたことは有名だが、
その栄西がお茶の種を京都・栂尾高山寺の明恵上人に贈り、その後その種を栂尾や日本各地に植えた所、
栂尾で大変美味しいお茶ができたとの事である。
そこでその栂尾でできたお茶を「本茶」、それ以外の場所でできたお茶を「非茶」と言って区別し、
その後「本茶」と「非茶」の識別を争う競技である「闘茶」が流行するようになるの茶歌舞伎 牌札である。
そして、南北朝から室町時代初期は闘茶の全盛期と言われ、公家や武士の間で香合わせ、
貝合わせと共に優雅な遊びとして闘茶が流行し、広く喫茶の風習が広まっていくのである。
しかし、遊興の闘茶文化も茶会の装飾から置物まで豪華、過美になり賭け事にまで達していく。
そんな中、生まれたのが「バサラ大名」である。
「バサラ」とは「婆娑羅」と書き、常識はずれの派手な振る舞いや贅沢にふけることで、
この「バサラ大名」の代表格が「佐々木道誉」だった。
彼の桁外れた振る舞いは「太平記」から詳しく読み取ることができる。
道誉は「七所を粧りて、七番菜を調え、七百種の課物を積み、七十服の本非の茶をのんだ」
(七箇所の座敷に唐物の派手な装飾をし、七番の闘茶を準備し、七百種に及ぶ豪華な賞品を用意して、
七十服の茶を飲み本茶非茶を飲み競った)とある。
そのようなバサラ茶会とは異なるとはいえ、中国的な文雅な茶会を催していた幕府、
朝廷ですら唐物主体の豪華絢爛な茶会から脱することができず、
茶の産地当て競技というよりは権力者達の財力を誇示する場となってしまったのである。
その後「わび・さび茶」の祖、村田珠光の登場、千利休による「茶の湯」の大成等、茶文化の移り変わりにより、
バサラ的な闘茶は影を潜め、今日においては茶事の余興として引き継がれ、
茶道の「七事式」の中の「茶カブキ」や群馬県中之条町白久保で毎年2月24日に行われる「お茶講」などで
その文化が残されている程度である。
しかし、中国においても日本においても、闘茶の習慣が現在の茶業者達の茶に対する鑑定眼を養い、
品質レベルを向上させていることに間違いはないであろう。
最後に、文面だけの理解には限界があり、実際に伊勢佐木町にある「横浜茶館」さんにて闘茶体験をしてきたので、
その流れを紹介させて頂く。
ここでは、鎌倉時代より特権階級で遊ばれていた「組香」(香り当て)式を応用した遊戯方法を扱っていた。
具体的には、茶種別(煎茶、抹茶、中国緑茶)服する回数によって「三種五服」や「五種二十五服」など幾つかの遊戯法が選べる中、
我家では「四種十服」の「十種式」を選んでみた。この「十種」とは試飲できることで、できないものは「十柱」という。
そして、予め四種の中国緑茶が用意され、「一、二、三、客(ウ)」に振り分けられていた(茶名は知らされていない)。
そのうち、一、二、三の茶は試飲できるが、「客(ウ)」は試飲できない。
まず、中国の紫砂壷にて淹れた「一の茶」、「二の茶」、「三の茶」の順に試飲して、その後に十服分がアトランダムに出茶される。
出茶の度に右から回ってきた折据の中に、裏に自分の印が付き、表に数字が書いてある牌札を入れて左の人に回す…という作業を
十服まで繰り返すのである。
茶名も知らされておらず、まさに自分の舌と記憶力だけが頼りの世界である。
いま一つ流れを理解していなかったことや、突然の地震、隣で悪態を繰り返す娘の姿、
そして何よりも自分の記憶力と集中力の欠如…等など言い訳をしだしたらキリが無いが、
最初は好調だったものの、結果的には六割しか正解できなかった。
それでも家族の中では最高点者として「闘茶会之記」という結果発表を頂くことができた。
家族には迷惑を掛けたが、都会の一角にそびえ立つ、
お香の香り漂う風情のある茶室での“お茶テスト”は大変優雅なひと時であり、
また私の伸びきった脳の活性化には一役買ってくれたに違いない。
闘茶は本来見栄を張る場ではなく、お茶を通して自己鍛錬し、人の輪を広げ、心を豊かにしてくれる場なのである。
肩肘を張らずに現代式にお茶を愉しみ、お茶で遊び、お茶を愛し続けたいものである。
陸 千波 2005年8月
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