茶イナよもやま話(その20)

 

  ここ最近抹茶づいている。…というか、茶道に触れる機会に恵まれている。 先月関西に赴いた際には、京都の大徳寺高桐院で抹茶の喫茶体験をした。

  この大徳寺とは鎌倉末期、宗峯妙超(大燈国師)により創建された禅の名刹である。 敷地内には全部で24の塔頭(タッチュウ)がそびえる中で常時拝観できるのはたった4つの塔頭だけという徹底振りである。 その賜物か、一歩足を踏み入れるとそこは世塵から開放された別世界。 客足は少なく、大衆化、観光化されていない、厳しい禅風をしっかり守り続けている禅宗寺院である。 また、大徳寺は別称「大徳寺の茶(人)づら」とも呼ばれている。つまり茶道との関わりが非常に深いのである。 大徳寺と茶の関わりは一休宗純から始まり、「侘び茶の祖」村田珠光を経て、「茶の湯」を大成した千利休へと繋がっていく。 千利休は堺の商人の生まれながら、幼き時より茶道を好み、北村道陳、武野紹鴎に師事するが、 その後織田信長に召されお伽衆に加わる。 しかし本能寺の変で信長の死後は豊臣秀吉に仕え、側近として茶人としてだけでなく、 政治の世界にも関与するようになるのである。

 そして信長が暗殺された際、大徳寺で葬儀を行うよう勧めたのも利休だと聞く。 茶道を通して信頼しあった仲の秀吉は、信長の葬儀を大徳寺で行い、塔頭「総見院」を信長の菩提所とし、 更に追悼大茶会まで催したという。 秀吉は利休を側近におくことで茶道や禅の力を利用し、不安定な戦国の世における武将達の心を休め、 また庶民の心を静めようとしたのである。 そこで特権階級として茶道をたしなみ、大徳寺に菩提寺を持つことに強い関心を示す戦国大名が大勢現れた。

  確かに大徳寺を歩いていると、その境内に戦国大名たちの墓が多いことに驚き、不思議に思ったものである。 信長を始め、石田光成、前田利家、黒田長政、細川忠興(三斎)など名将ばかりが名を連ねている。 当然秀吉の側近であった利休も力を蓄えて行ったに違いないであろう。

  又、大徳寺には別名「金毛閣」と呼ばれる朱塗りの二階重層の三門がある。 敷地内のほかの建造物に比べると少々華やかなイメージがあったが、元々単層で未完成だった門を重層に変え、 寄進したのが侘び寂をモットーとする利休だったと知り、少々意外な気がした。 そしてこの寄進者への感謝の印として大徳寺側が利休の木像を作ってこの楼閣の上に安置した所、 「利休の足元を潜らせるのか!」と秀吉の逆鱗に触れ、木像は船岡山に捨てられ、利休には自刃を命じたという。

  茶を通じ信頼しあっていたような二人ではあるが、晩年に近づくに連れ、 「侘び寂」の世界を全うしようとする利休と、それに煩わしさを感じ始めた秀吉のそれぞれが目指す世界の違いに、 溝が深まってしまったようである。 曰くつきの三門の存在に、感慨深い気持ちでいっぱいになった。

  そんな中、本来は利休の墓を参拝したい所だったが、利休が眠る聚光院は拝観不可。門前で合掌をし、 高桐院へ足を運ぶ。 この高桐院の門から続く石畳は素晴らしい。 地は青く苔むし、見上げれば青々としたもみじが連なっている。 ここの紅葉や雪景色も見事らしい。 この高桐院は細川忠興(三斎)が父幽斎の菩提所として建立した塔頭である。 ここの前庭の緑もまた美しく、静寂に包まれ、この庭を見ながら飲む抹茶も又格別で、一瞬時を忘れそうになった。

  その高桐院の見ものといえば、細川忠興とガラシャ夫人の墓ではないだろうか。 これは墓といえども実際には石灯篭が一つ立ち、その周りを石柵で囲んでいるまるで小さな茶庭のような雰囲気である。 墓なのに何故灯篭なのだろうか。実はこの灯篭、元々は利休が所持していたものだそうだ。 そこで利休を心底崇拝していた忠興は、利休の死後、この遺品を受け継ぎ片時も離さなかったと言う。 しかも参勤交代で江戸と九州を往来する際にも持ち歩いたというのだから、その灯篭への入れ込みは尋常でなく、 自分の墓石代わりにしようという気持ちも判るような気がする。 ちなみに実際に見た時には気がつかなかったのだが、この灯篭の一部が欠けているそうである。 というのも利休がこよなく愛した灯篭を見て秀吉もこれを欲したが、 どうしても手放したくない利休が苦肉の策で自らなたで叩き割り、損じていることを理由に難を逃れたそうだ。 尚、忠興の実際の墓は熊本旧城下にあり、この高桐院の石灯篭の下には遺髪が埋められているとか…。 茶を愛し、茶と禅の精神を通して戦国の世を生き抜いた武将達の人間模様が垣間見える空間であった。

  話は変わるが、先日、私が住む市の茶道協会設立25周年の茶会が催されると言うことで誘いを受け、 茶席に参加してきた。 今回は流派を超えた交流になっていて、表千家による「濃茶席」、 裏千家による「薄茶席」そして煎茶東阿部流による「煎茶席」とホテルでの点心(昼食)というものだった。 ちなみににじり口から入る小間における濃茶席は初めての体験で少々緊張したが、参加人数の関係で一度に大勢の入室、 儀式も簡略化された素人でも入りやすい楽しい茶会であった。 茶道では今の季節の茶花がはかなげに生けられ、煎茶道では盛り物といって花だけでなく、 「風月三昆」と言われる蓮(蓮根と蓮の花と蓮の葉全部)、黄菊、春蘭が生けてあったのがとても新鮮で興味深かった。 茶道関係に素人な私としては、茶花、お香、器、全ての奥が深すぎて少々の勉強ではとても薀蓄を語れない分野だが、 茶道、煎茶道を通して一番興味を感じたのは掛け物、「禅語」の世界かもしれない。

  その他、近くの公園での野点体験等もしたが、これらの体験を通して感じたのが、 日本のお茶と中国のお茶の在り方の違いである。 日本の茶道や煎茶道では「茶禅一味」という考えを重んじ、掛け物にしろ、茶室の空間にしろ、 服装や茶花の生け方まで禅の教えに従い、無駄を省いた最低限の空間の中で味わう一杯の贅沢の極み、 精神の鍛錬のようなものを感じる。 つまり抹茶は茶「道」であり、煎茶は煎茶「道」であり、「芸」ではないのである。 逆に現在の中国茶は中国茶「芸」ではあるが、中国茶「道」の域には達していないというか、少々外れている気がする。 勿論茶は中国が発祥で、禅宗と茶の関係も本来中国から日本に伝わったことは確かである。 しかし中国において唐宋時代に盛んだった中国茶文化も、明の朱元璋が団茶を禁止し、散茶を奨励した頃から、 茶は特権階級のものではなく、一般庶民まで楽しむ喫茶として広まる。 そして基本的には服装やしきたり、型にとらわれない茶芸が広まってきたようだ。 ただ、本来禅の考えとしては万人に平等であり、無為自然のやり方で茶をたしなむと考えれば、 中国茶の方が禅の教えに忠実なのかもしれないし、茶道の方が有心、固定観念に縛られている点で、 禅の教えに忠実なようでそうでないのかもしれない。 これらはどちらが正しいとか良いという問題ではないので、あくまで個人の好みだと思うが、 型や流派にとらわれない穏やかな中国式の方法も良いと思いながらも、中国茶に関しても何処かで自戒的な、 教訓を得られる「道」の部分をもっと学びたい、知りたいと思ってしまうのは、やはり日本人ゆえかもしれない。

陸 千波 2005年10月
      
大徳寺で頂いた薄茶と餅菓子