茶的故事 

 台湾茶

 其の十六 頭屋明徳茶

 
  苗栗県頭屋は客家語「崁頭」に由来し、崁は崖の意味で崖の先端というような意味です。 乾隆2年(1737年)に広東出身の張盛仁、謝超南ら農民十人程によって開拓が行われましたが、 そのとき崁頭の下に住居(屋)を構えたので、この地は「崁頭屋」と呼ばれていたのでした。 そして、民国9年(1920年)に崁が削除され、「頭屋庄」となりました。 理由は推測ですが、崁頭は「頭を切る」を連想することからだと思われます。 民国35年(1946年)に新竹県苗栗区頭屋郷、さらに民国39年(1950年)に苗栗県頭屋郷と改正され、現在に至っています。

  明徳の旧称は老田寮で老藤寮とも呼ばれていました。 藤が多くあり、田と藤の発音が近かったからと思われます。 寮は宿舎や村の意味があり、この一帯に多くの小作農の宿舎から村を形成したとして寮が使われました。 道光6年(1826年)に明徳地域で広東鎮平出身の黄生亮、林庚西、謝捷三、湯燕義の五人を中心とした 老田寮5集団が開拓に入り、黄生亮の孫が龍潭より茶の苗を老田寮の山岳地帯に植栽し、有名になりました。

  この頃の様子は、苗栗県誌に記載されいます。 それによると、清朝の道光7年(1827年)頃に広東省より茶の苗を移植し、 光緒23年(1897年)に頭屋では福建より技術向上指導のために、師傅(職人さん)を茶の指導のため招聘しています。 その後に多くの茶が輸出され、頭屋の老田寮茶、南庄、三義の紅茶、獅頭山の包種茶、卓蘭の壢西茶が もっとも有名となったのだそうです。

  日本統治時代の様子は当時の新聞に取り上げられています。 大正11年(1922年)6月22日付の台湾日日新聞には、新竹州の茶業が活況を呈していること、 当時属していた頭屋には頭屋と老田寮に二つの茶業利用組合ができ、製茶及び摘採競技会を開催したとの記事があります。 また同じく、台湾日日新聞の昭和6年(1931年)6月11日付の記事では 老田寮茶業組合長の張阿杉氏は茶業に州下並ぶ者いない権威者であり、茶業発達の功労者であり、 孫の張雲秀氏もまた製茶技術に卓抜な腕を有しているとあります。

  戦後の老田寮茶の発展と衰退の様子が散見できる本として、 台湾の一大企業グループ「新光」の創設者の呉火獅の著書「台湾の獅子」(講談社)があります。 氏の企業家としての半生を綴ったものですが、戦後間もない頃、老田寮で茶業にも携わっていたのだそうです。 日本統治時代に老田寮には製茶業が集中させられていましたが、戦後多くの製茶工場が民間に払い下げられました。 しかし、数年間は茶、砂糖は終戦のあおりで売れず、茶は山積み、畑は荒れ放題だったそうです。 氏はもっとも大きい工場を入手し、生産した花茶は天津や満州へ、紅茶と烏龍茶は香港に輸出し、外貨を獲得しました。 結局、中国内戦に伴う通貨膨張で茶業は衰退し、製茶工場を縫製工場に転換されました。 そのとき、茶葉乾燥器のエンジンで発電し、縫製機械の電力問題を乗り越えた話などは興味深いです。 茶業から撤退しても老田寮の烏龍茶を愛飲し、「深山のところに抱かれて育った茶は一味二味と違う」と賞賛しています。

  紅茶や緑茶の輸出衰退にともなって、半球型包種茶や烏龍茶を主に栽培するようになり、 頭屋一帯の茶は一般的に「老田寮茶」と呼ばれるようになりました。 そして、民国64年(1975年)に当時行政院院長だった蒋経国元総統が、 茶園の分布が頭屋郷明徳村の明德水庫(ダム)上流の山丘一帯などにあることから、 「明徳秀茗」として「明徳茶」と命名しました。

  近年の明徳茶は包種茶が主力となり、凍頂茶や文山茶と名が並ぶほど高く評価されています。 残念なことに日本ではまだまだ飲むことが出来ない貴重なお茶の一つです。

 楊品瑜 2005.09.24 (転載不可)





(追記)
  明徳茶の写真を追加しました。付き合いのある茶商にお願いして入手してもらいました。 このため、パッケージは茶商の一般的なもので、「明徳(熟)」という手書きのシールが貼られているだけです。
  時間や年数をかけて発酵させた茶を熟茶と言います。 主に一部のプーアール茶がこの工程を行っています。 しかし、近年では本来より強めの焙火や再焙火を行い、茶の味を熟成させたものを熟茶と呼ぶことがあります。 この方法は主に発酵茶で行っているようです。
  今回紹介した明徳熟茶は後者です。 推測ですが、ここ数年台湾でも健康を意識したプーアール茶ブームですので、この茶も熟茶の味を求めて 普通の烏龍茶からチャレンジしたものだと思います。

 楊品瑜 2005.11.05 (転載不可)


「台湾の獅子」 呉火獅 著(講談社)





茶商に入手してもらった明徳茶