茶的故事 

 台湾茶

 其の二十四 雲林雲頂茶

 
  雲林県は漢民族がもっとも早く開墾した土地で、「台灣府志」の沿革には、 明の時代1624年に福建彰州出身の顏思齊、鄭芝龍(鄭成功の父)等が笨港(オランダ語ではPonkan)に上陸し、 拠点をおいて開墾を行ったと記されています。 笨港は今日の雲林県北港と嘉義新港一帶ですが、「一府二鹿三艋舺」と言われる前には 「一府二笨」(開発の順序として第一は台南府、第二が笨港)と呼ばれた時代もあるほど非常に栄えていました。

  歴史上、雲林という地名は二つの市街を有していました。 一つは林圮埔(今の竹山)で、もう一つは今の雲林県庁所在地の北六です。 光緒12年(1886)清朝が雲林県を新設し、 同19年(1873)には林圮埔の土名 雲林坪を襲用し雲林域と称しました。 これにより、雲林という称呼は斗六の代表として用いられるようになりました。 雲林県は台湾でもっとも豊かな嘉南平原に位置し、豊富な農産品を産し、 台湾海峡の近海に良質な漁場があり、魚の養殖も盛んな地域です。

  雲頂茶は「雲林第一頂」(雲林の一番というような意味)に願いを込めて付けられました。 主な産地は林内郷坪頂村の茶区です。 坪頂村はサツマイモ、サトウキビ、竹の子、フルーツなど多くの農産品の名産地でしたが、 農業の衰退に伴い、後継者不足で衰退してしまいました。 1976年頃に政府の協力を得て、凍頂茶で有名な鹿谷郷から茶種を導入し、良質な烏龍茶を栽培することを目指しています。 雲頂茶区は海抜350メートル前後で茶畑としてはそれほど高地ではありませんが、 日中と夜の温度差が大きく、雨、霧が多く、湿度も高いため、茶の栽培に適しています。 また、多くの林木にめぐまれ、日照の調整にも最適な立地にめぐまれ、香り高い茶が生産できたとされています。

  茶種には青心烏龍種が多かったのですが、近年は金萱、四季春種も栽培されています。 観光茶園もいろいろ作られ、2003年には林内郷の農協による「坪頂茶葉推廣中心」が設立され、 さらなる茶業の発展に力を注いでいます。 ただ、坪頂茶区の一部では生産した茶を坪頂茶と呼んでおり、茶のブランド化はまだこれからという感じがします。 近年、少量ですが日本にも輸入され、買うことができます。

  また、1998年には坪頂村南部の茶園一帯の土地整備時に三千年前の遺跡が見つかり、「坪頂遺址」と名付けられました。 多くの杯や碗などの生活用品も出土し、現在も調査が続いています。

  台湾の廟では多くの娯楽文化が築かれてきました。 布袋戲(傀儡劇)と呼ばれる人形劇がその一つです。 布袋戲は発祥が福建泉州とされ、台湾に渡った多くの福建出身者が持ち込み、清朝の頃から盛んでした。 布袋戲は“做戲憨、看戲狂”(演じる方も演じる方だが、見る方も狂っている)という言葉を生むほど人気がありました。 その後、テレビの普及に伴いテレビ放映されるようになり、現在は一般娯楽から台湾伝統芸術として認知されました。 雲林県はもっとも盛んだったこともあって、現在も県内に数百の団体があるそうです。

  かつて廟の敷地内には、長老的な年輩が功夫茶器(茶具)で茶を入れる風景もよく見られました。 そのためか台湾では功夫茶器は老人茶具(老人茶器)とも呼ばれ、 功夫茶器で茶を淹れて飲むことは喝老人茶(簡略して老人茶)、泡老人茶(老人茶を淹れる)と言っていました。 この呼び方は「茶芸」という名が登場する80年代まで使われていました。 当時、筆者は「若いのにどうして老人茶に興味をもつのか」とよく皮肉られたものでした。

    歴史の町で伝統に触れ、美味しい茶が飲めるところとして、雲林の今後のさらなる発展が楽しみです。 入手した雲林雲頂茶のパッケージも一般的なものでしたので、茶葉の写真を載せてみました。

 楊品瑜 2006.02.07 (転載不可)


雲頂茶の茶葉






関帝の布袋戲人形