茶的故事 

 台湾茶

 其の三 南港包種茶

 
  近年、一部の研究者や茶業に携わっている人たちによって、歴史的に見直されている 茶園として、台北郊外の南港があります。 かつては名茶産地だった南港は、明の時代までは原住民が住み、 清の時代に福建からの移民によって開発され、発展しました。 清の時代は大加吶堡南港三重埔と呼ばれ、日本統治時代に「南港」と呼ばれるようになりました。

  台湾包種茶の定義について、現在も歴史、製法、分類などさまざまな角度から 研究され、見直しが行われています。 今回紹介する内容は筆者が理解している内容ですが、今後さらに見直されることがあるかもしれません。 一般的に包種茶の歴史を辿れば、ジャスミン茶を作るための原料とされていた話は よく知られていました。 伝統的烏龍茶製法から現在のようにジャスミンなどとブレンドしないで飲む包種茶の製法を 確立したのは、福建安渓から南港に移住した王水錦、魏静の両氏と言われています。 二人とも最初の頃は、当時の台湾の主要輸出品の樟脳の原料となる樟樹を栽培していましたが、 1880年頃から茶の栽培に転向しました。

  日本統治時代の1920年アメリカに輸出しようとした台湾産烏龍茶はジャワ紅茶に 圧され、大量焼却処分になりました。 一方、東南アジアに輸出していた南港包種茶はさほど影響されずに済んだことから、 日本政府は包種茶の栽培を奨励しました。 その一環として、南港の大坑に「包種茶産製研究中心」を作り、王水錦と魏静を 講師として招き、研究・開発を進めたり、定期講習を開きました。 そして、この方法が文山茶区へも伝わったらしいということです。

  王水錦と魏静の製茶方法は多少違っていたそうです。 王水錦の製造法は文山式製造法と呼ばれ、茶湯が赤く濃厚でした。 魏静の製法は南港式製造法と呼ばれ、香りは清香、茶湯は緑がかったものでした。 残念なことに、王水錦は包種茶産製研究中心に招かれたときには高齢だったために、 氏の製造法は伝承されず、魏静の製法が今日の台湾包種茶の礎となったと 言われています。

  その後、南港では炭坑が栄え、後継者がそちらへ取られたり、 戦時中の食糧難で茶樹が伐採され、食物栽培や他の植樹が行われました。 結果として、茶業は衰退してしまいました。

  戦後も南港での茶栽培は衰退していましたが、 伝統文化の保護の視点から台北市政府が近隣の道を整備し、 1982年に南港観光茶園を設立しました。 さらに、1991年に「茶葉製造示範場」を設置し、 南港包種茶の歴史についての展示や茶の製造過程の見学会を行うようにしました。 最近は、周辺に残された炭坑の遺跡と併せて、観光スポットになっています。

  復活途上の南港包種茶はまだ採取量が少ないですが、 台北市政府の奨励により南港農協が品評会を行うほどになりました。 ビジネス的には近隣の文山包種茶人気に圧され、厳しい競争にさらされていますが、 今後の発展が注目される茶区です。
 
 楊品瑜 2004.11.07 (転載不可)


2004年春茶
 


(追記)
  今年の研修旅行で南港茶葉製造示範場へ行ってきました。 茶農家の皆様の手作り感・素朴感たっぷりに運営されていました。 もちろん、展示室でのサービス茶の他、施設内の茶館でも茶を飲んできました。 日本から来た物好きな不思議な団体と思われたのか、 見学に来られていた地元のお客さんまで総出でもてなしてくれたのがとても嬉しかったです。 茶の味は昔ながらの包種茶という感じでした。 最近の包種茶をさっぱり系とすれば、やや渋く、でも甘さも感じました。 地元の水で淹れているのが良かったのかも知れません。 茶の味は値段だけじゃない、歴史と作った人の愛情だということを再認識させられました。

  写真の日本統治時代の品評会賞状は南港茶葉製造示範場に所蔵されていたものですが、 現在は一般公開されていません。 日本から来たということで、特別に数枚の賞状を見せてもらいました。

  この賞状は大正12年の日付ですが、当時南港の包種茶の評判を伝える記事が 台湾日日新報大正13年9月の 「包種茶の話」 にあります。 一部を要約して紹介します。記事の中では、花の香りを付けたものを包種茶、花の香りを付ける前の 茶葉を包種茶原料と呼び、「包種茶原料の有名な産地は台北州の七星郡南港、 文山郡木柵、海山郡三峡であり、 その中でも南港産は花香を付けていなくても花香を付けたものより香気があると 褒め上げられている」 と書かれています。  

 楊品瑜 2005.03.07 (転載不可)




南港茶葉製造示範場




日本統治時代(大正12年)の賞状