茶的故事 

 台湾茶

 其の三十四 湖口長安茶

 
  新竹県の湖口郷は元々大湖口または大窩口と呼ばれていました。 窩は山窩、即ち三面が山に囲まれ、出口が一面だけの地形のことです。 言い伝えによると、古代からいくつかの小さい湖があり、のちに渇いて陸地となったのですが、 もっとも大きかった湖の近くが現在の湖口にあたるそうです。

  「湖」は「窩」と発音が近いのでのちに湖口が使われるようになったようです。 また、ちょっと面白いことに、 清の姚瑩の著書『台北道里記』では「大湖口」を「糞箕湖」とも称していたそうです。 糞箕は塵取りの意味で、糞箕湖の名は塵取りのような形をしていたことに由来します。

  のちに広東省陸豐、蕉嶺県出身の客家人が移住し、小さい集落が各地に形成されていきました。 湖口郷は湖口台地の西部にあり、北は中壢台地、桃園台地、林口台地と隣接しています。 この一帯の台地には小さい湖や溪流があり、かつては米の重要な生産地でした。

  18から19世紀中期では平原地帯の波羅汶(婆老粉)地区が湖口郷の中心地で、 この地域最初の学校「大湖口学校」も作られていました。 のちに発展にともなって光緒19年(1893)、基隆-新竹間に鉄道が開通し、平原と山地交錯地、 今日の俗称「老湖口」の地区に湖口駅が設立されました。 これにより、多くの人が移住し、更なる発展を遂げます。 日本統治時代の昭和4年(1929)には鉄道の駅が新湖口に移築され、現在は新湖口が中心地にかわりましたが、 老湖口はもっとも栄えた時代の建物(ほとんどは大正3から8年に建てられています)や看板を保存し、 旧駅は天主堂として生まれ変わりました。 この旧駅を中心とした商店街は湖口老街と呼ばれ、ノスタルジックな光景が残された観光地になっています。

  新竹県の茶葉栽培は、1940年から1975年の間は主に輸出用の低価格の紅茶と緑茶でしたが、 近年は一般的な包種茶と高級椪風烏龍茶(東方美人茶)の栽培に成功しました。 湖口郷から新埔鎮につながる一帯は多くの烏龍、包種茶を生産しています。 多くの観光茶園があり、老湖口観光と相乗効果を成し遂げています。 また茶園の西側には台湾海峡が見えます。

  湖口郷の北窩、南窩及び羊喜窩、糞箕窩一帯は古くから傾斜地に茶園を作っていました。 平均的な傾斜度は19度あり、土壌管理は難しく、 水の管理や土の養分流出などで徐々に茶園は廃れていきました。 1978年「茶葉生産、專業区計画」を政府が導入し、1980年から1982年に「山坡地大面積保育利用計画」で、 茶区の水と土の保持、及び茶園の交通網が整備されました。

  丘陵地区は青心烏龍、金萱や翠玉などの優良品種を栽培し、小型機械の導入により量産に成功しました。 湖口の出身の行政院農委会の黄欽榮博士が湖口茶区の茶を「長安茶」と命名しました。

  1980年、台湾のシリコンバレーと呼ばれる「新竹科学園区」が創設され、新竹の工業が発展しました。 今日では台湾科学の最先端地という印象が強いですが、隠れた茶の名産地でもあり、 多くの方々が茶園の再建を尽力され、日々成果が見えてきました。 湖口産の茶は比較的安価なために、泡沫茶や缶入り、ペットボトル用にも多く提供されています。 このため、台湾旅行のおりなど、知らず知らずのうちに湖口茶を口にされることがあるかもしれないですよ。

  現在、湖口の茶を切らしています。 入手し次第、ご紹介します。

 楊品瑜 2007.03.20 (転載不可)


湖口の茶畑






老湖口の茶舗