霧社は戦後「仁愛郷」に改名されましたが、南投県の中部に位置し、
北側は信義郷と台中県太平郷、東側は花蓮県の能高山、
南側は信義郷の水社大山と隣接しています。
渓谷を挟んで埔里鎮とも隣接しています。
地理的に仁愛郷は中央山脈の上に位置するため、高い山岳や草原に囲まれ、
異なった文化を持つ原住民部族が分散して住んでいます。
霧社地方は「桜都」と呼ばれるほど多くの桜が植樹され、
有名な合歡山や廬山に登山するとき、必ず経由する人気観光地です。
霧社は霧社事件が起きた場所でもあります。
日本統治時代の1930年10月27日、霧社地区の原住民が日本の官憲の横暴と圧制への不満から、
酋長モーナルダオが部族民を率いて学校の運動会に参加している日本人を襲撃し、134人を殺害しました。
事件勃発後、台湾総督府は2000余名の軍隊と警察を動員し、
爆撃機や毒ガスを使って山中に退いた原住民を攻撃しました。
原住民は50余日間にわたって抵抗し、多数の死傷者を出しました。
史書によると、1400人の霧社原住民のうち、約3分の2が犠牲になり、
生き残ったのはわずか500人でした。
事件の悲惨さは、日本国内に伝えられ、日本政府に大きな衝撃を与えました。
事件後、台湾総督府は関係官憲を処分し、対原住民政策の見直しが行われました。
戦後に平和な気持ちを込めて霧社を仁愛郷と改名したのですが、
現在も仁愛郷の行政中心地に霧社の地名が残されています。
また、2002年より霧社郷に戻す運動が行われており、多くの住民には歴史的な地名を回復したい思いは深いようです。
霧社の名称は1717年出版の『諸羅縣志』に「致霧社」として登場していますが、
19世紀の『彰化縣志』では「平來萬社」と泰雅族「万大社」(仁愛郷親愛村の万大社区)を合わせて「萬霧社」と記載されています。
致霧社の地名は同族の「tebu」(「人を咬む猫」という意味)に由来する説がありますが、
安倍義明著『台湾地名研究』によると、この地は四季を通じて毎朝雲霧に蔽われているので、
清朝政府が「霧社」の名を付けたとあります。
日本統治時代、台湾総督府は霧社一帯を開発し、それによって霧社が交通の要所となり、
のちに軍事要所にもなりました。
近年は高山茶人気のあおりで茶園不足になり、一般には仁愛郷の霧社と廬山一帯産の茶区を霧社茶と呼んでいます。
茶園は霧社茶区と廬山茶区に区別されています。
廬山茶区には台湾最大手茶業である天仁銘茶の茶園があり、長年に渡って廬山茶の名声を高めてきました。
天仁銘茶の廬山茶は「天廬茶」と「天霧茶」というブランドになっています。
仁愛郷の清境農場は、海拔約1748メートルの大同村定遠巷にあります。
高級高山茶を生産しています。
農場の面積は約760ヘクタールで、山々に囲まれ、牛や羊の放牧区と野菜果物・高山植物区とに別れています。
遊歩道も整備され、観光客に大自然を体験いただける環境となっています。
この農場は民国50年(1961)に設立されたとされていますが、
実は日本統治時代の「見晴牧場」(晴れの日が多い牧場)を基礎にして発展してきたのです。
また、廬山は台湾屈指の人気温泉地であります。
廬山温泉は日本統治時代では「富士温泉」または「鴿沢温泉」(鴿は鳩の総称で、日本式には鳩沢温泉と表記されることもあります)と呼ばれ、
「神泉」としても重要視されていました。
海拔400メートルに位置します。
霧が多く、温泉が発見された逸話に、原住民が鹿狩り中に野生の動物が温泉に入り、
けがや病気を治しているのを発見したのがきっかけだというのです。
かつては日光が山谷に射さないので、「mahebu」(日が射さない陰影の地という意味)と呼ばれていました。
廬山温泉は民国30年(1941)に正式に検査を受け、温泉地として整備されました。
現在はつり橋が重要観光スポットになっています。
霧社産の高山茶はフルーティーな酸味が特徴で、いつも美味しくいただいていますが、
先日機会があり、ティーバックをいただきました。
期待せずに飲みましたが、あまりの美味しさに驚きました。
味、香り、ともにティーバックにするにはもったいないお茶です。
台湾高山茶はどこまで進化していくのかを楽しみにしています。
楊品瑜 2008.07.25 (転載不可)
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清境農場の入り口

農場から見下ろした一帯の茶畑

清境農場産の霧社茶

清境農場産の霧社茶のティーバッグ
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