茶的故事 

 台湾茶

 其の四十 大稲埕(特別篇)

 
  大稻埕は台湾茶の発展においてはとても重要な場所です。 1871年陳培桂が編集した『淡水廳誌』によると、 大稻埕は元来 凱達格蘭族(ケタガラン、Ketagalan)の奇武族社の居留地でした。 奇武族社は「奎武族社」、「奎府聚社」、「圭母卒社」、「哥武卒荘」とも書きます。 『台湾府志』によると、乾隆初期、この地は「哥武卒荘」」と呼ばれていましたが、 康煕末年、入植した漢人が水田を開拓し、 水田中央の高所に稲や穀物をほす共同の大埕(埕は庭の意味)をつくり、 これを大稲埕と名付けました。

  大稻埕の位置は、現在の台北市民権西路より南、忠孝西路より北、重慶北路より西、 淡水河の東にあり、その範囲は台北市の建成区と延平区の2区、大同区西南部、 城中区北門里が含まれています。

  台湾には「一府二鹿三艋舺」という諺があります。 これは台湾早期の開発の順序を語る言葉で、すなわち最初は台南府(台南市)、 次は鹿港(彰化県内)、その次は艋舺(マンカ) (台北市龍山区、日本統治時代に日本語と同音の「萬華」に改めた)という順です。 艋舺は淡水河、大漢渓、新店渓の合流地点にあり、 その語源はケタガラン族の“moungar”(丸木舟)に由来します。 明末清初、漢人が台北盆地に入植した後、 淡水河の上流にある大漢渓と新店渓流域に居住する原住民が“moungar”で物産を運んできて漢人と交易していました。 漢人は“moungar”を「艋舺」と音訳し、これを船着き場の地名としたのです。 その後艋舺は水運の波止場として栄え、台北盆地開発初期の物産集散地となったのであります。 しかし、咸豊初頭、艋舺は淡水河上流から流出する土砂により、河床が浅くなったため、 その下流沿岸の大稲埕が艋舺に取って代わり、水運の波止場となりました。

  伝えによると、1851年(咸豊1年)、 福建省泉州府同安より移民してきた林藍田が海賊の掠奪を避けるため、 基隆から大稻埕に移住し、現在の迪化街に「林益順」という店を出しました。 つづいて、1853年林右藻が商人を集めて大稲埕に商店街をつくり、 さらに各大商と協議して「厦郊」(厦門(アモイ)との貿易に従事する商会)を組織し、 「金同順」と名付け、林右藻が「郊長」に推挙されました。

  同年、艋舺において泉州三邑(晋江、南安、恵安)人と漳州人および泉州同安人が集団的に縄張りを争っていました。 俗にこれを「分類械闘」(異なった出身地の移民が武器を持って集団で闘うこと)と称しますが、 この「械闘」の結果、漳州人と泉州同安人は艋舺から追い出され、大稲埕に移りました。 1856年と1859年に新荘(台北近郊)一帯の泉州人と漳州人がまた「械闘」を行い、 闘いに敗れた漳州人も大稲埕に移住しました。 これら避難民は、淡水河沿いに店を築いて商売を営み、その結果、 大稲埕は人口の急増によって町が栄え、ついに艋舺を凌いで台北の商業中心地となりました。

  台北の多くの町は廟の建設により人が集まり、村が出来、町が形成されました。 例えば、龍山区萬華は龍山寺(乾隆3年、1738年建設、二級古跡)と清水巖 (別名祖師廟、乾隆52年、1787年建設、三級古跡)を中心に、 大同区大龍峒は保安宮(嘉慶10年、1805年建設、二級古跡)を中心にして発展してきた町であります。 ちなみに、龍山寺、清水巖と保安宮は台北三大廟と呼ばれています。
  大稲埕にある霞海城隍廟も町の形成と同時に建設された廟です(1856年着工、1859年完成)。 その歴史は約150年間ですが、台湾では三級の古跡と認定されています。 ちなみに、龍山寺、清水巖、保安宮と霞海城隍廟はみな道教の廟です。 余談ですが、 日本人に人気の占い横丁がある中山区の「行天宮」は1968年に建設された近代的な廟です。

  ところで、 1856年(咸豊6年)広東港で香港に登録してイギリスの国旗を掲げる「アロー号」船を、 清国官憲が臨検し、中国人船員12名を海賊の容疑で逮捕すると同時に、 イギリスの国旗を引き降ろしました。 同年、フランスの神父シャプドレーヌが布教中に広西で殺害されました。 この二つの事件に端を発し、イギリスとフランスが共同出兵して広東を陥れ、 さらに北上して天津に侵攻しました。 ここに至って、清国は講和を求め、1858年英仏両国と「天津条約」を結びました。 しかしながら、翌年条約批准交換の英仏使節が白河より北京に入るのを阻止されたため、 両国は再び出兵して北京を占領し、 1860年に天津条約の追加条約ともいうべき北京条約を締結しました。 これがいわゆる「第二次アヘン戦争」(「アロー号戦争」ともいう)です。

  天津条約と北京条約により、清朝は通商の自由、公使の北京駐在、 外国人の中国内地旅行の自由、キリスト教布教の自由、および天津、漢口、江寧(南京)、 潮州(汕頭)、淡水(台北)、安平(台南)など11港の開港を認めさせられました。

  淡水開港後、 台湾北部の物産は淡水河を経由して直接海外に輸出することが出来るようになりました。 この頃、艋舺辺りの河床がすでに浅くなったため、 内外の商船はほとんど大稲埕で貨物を積み下ろしていました。 それゆえ大稲埕は台湾北部の物産集散地と商業貿易中心地となりました。 これをきっかけに、 1860年(咸豊10年)、艋舺の「泉郊金晋順」(泉州との貿易に従事する商会) と「北郊金萬利」(中国北部の上海、寧波、天津、煙台、牛荘等との貿易に従事する商会) が大稲埕の「厦郊金同順」と協議して大稲埕に三郊会館を設立し、 その名称を「金泉順」に改め、林右藻を三郊総長に推挙しました (伊能嘉矩著『台湾文化誌』下巻参照)。 これが台北市商会の濫觴です。

  同治年間(1862~1874年)、台湾北部の茶業が興起し、 大稲埕に多くの茶館と茶行(茶店)が設立され、一大茶市となりました。 1865年にイギリス人のジョン・ドットと通訳の李春生(厦門出身)が泉州安溪烏龍茶苗を導入し、 大稲埕に洋行(貿易会社)を設立し、台湾茶(Formosa Tea)をニューヨークに輸出しました。 台湾茶業が世界にデビューしたのはこれが初めてだそうです。 後にジョン・ドットから台湾における茶業を任された李春生は、ビジネスに成功し、町への貢献も多く行っています。 なかでも有名なのは、鉄道建設への献金や諸協力です。現在も「李春生紀念館」が残されています。 その後、五大洋行とされる德記、怡和、美時、義和、新華利が大稻埕に会社を設立し、 大稻埕は更なる繁栄を迎えました。 また、台湾烏龍茶の輸出が国際的に名声を上げたことにより、福建や厦門の茶農は大きな打撃を受け、 多くの茶農が台湾に渡り、台湾茶業の発展に貢献しました。

  台湾茶の流通は茶農家→脚人(飛脚)→茶販(茶農から茶葉を買い上げ茶館に売る仲買人のような仕事) →茶館(茶葉をブレンドし品質を管理)→媽振館(茶葉の宣伝販売、茶館への資金貸付)という流れとなっています。 この流通過程の産物の一つと言える、「台湾茶路」(台湾ティーロード)は茶葉の船積みのために、 台北県深坑から山を越え艋舺まで運ばれた、脚人たちが踏み出した道です。 現在、六張犂の石泉巖(廟)に記念碑が建てられています。

  イギリスに輸出した数々の台湾茶も徐々に名声が上がり、ビクトリア女王に褒められ、 「東方美人茶」の銘茶も生まれてきました。 東方美人茶は当時では番庄烏龍茶と呼ばれていました。 これは主に烏龍茶を扱った茶館を蕃(番)荘茶館と呼んでいたことに由来します。 ちなみに、包種茶を扱った茶館は舗家、両方を扱っているところは烏龍包茶館と呼ばれました。

  1885年、初代の台湾巡撫 劉銘伝により、大稻埕南端に台北火車站(前鉄道局遺址)の設立が考案され、 茶釐局(茶業を管轄する機構)、軍裝機器局などの国家機構がこの一帯に設立されました。 その後、鉄道の開通により台北は更なる発展を見せ、台南と並ぶほどの繁栄を迎えていきます。

  日本統治時代の1897年、台湾総督府の調查では大稻埕の茶商は252軒あったそうです。 その後の貿易の影響は経済のみならず、建築物や宗教などの異文化も続々と大稻埕経由で台湾に影響を与えていきます。 日本統治時代には日本の商社が洋行の勢力を排除し、大稻埕商業は伝統の茶葉ビジネスから漢方薬、 布の卸業などに拡大していきます。

  日本統治の中期頃、大稻埕は、日本人が積極的に建設した台北城内(現城中区)に繁栄をとられていきます。 これは経済中心の城外、行政中心の場内に区分する説もありますが、 台湾人と日本人の商場を別々にするためであったと分析する説もあります。

  日本統治時代の1920年11月1日、台北庁直轄の艋舺、大稻埕、 大龍峒三区が台北市となって台北州に属していました。 これによって、大稻埕の行政区は港町、永樂町、太平町、日新町、下奎府町、建成町、上奎府町と分けられてしまい、 「大稻埕」は歴史上の町となってしまいました。 しかし、二二八事件(九份篇でも簡単にご紹介しています)の発端となった事件が起きた「天馬茶房」も大稲埕の区域内で、 当時いかに人の集まる町だったかが分かります。

  現在の大稲呈は交通網の発達により、淡水河によって貨物の運送はなくなり、 周りは埋め立てられ、水門は歴史の証人として残されています。 長年変わらず続けてきたお茶屋さんは百年老店として今もの数軒残っています。 台湾茶好きなかたにはぜひ訪れてほしい町のひとつですね!

 楊品瑜 2009.07.13 (転載不可)

李春生さんのご子息から頂いたリフレット




大稲埕の旧水門写真