近年、お茶の勉強で、福建省を訪れた多くの受講生が、 観光で廈門(アモイ)より、金門島を眺めるツアーに参加されることが増えています。 金門島については、当教室の顧問でもあります。楊合義先生にその歴史を紹介頂きました。

楊合義プロフィール
台南市生まれ。京都大学大学院東洋史研究科博士課程修了後、台湾国立政治大学国際関係研究センターに勤務。
同研究センター駐東京特派員兼日本語版「問題と研究」(月刊誌)編集長。平成国際大学教授を経て、名誉教授。
日台関係研究会理事。

 
 
茶的故事 

 台湾茶

 其の四十二 金門特別篇
   軍事基地から観光島に変貌した金門

 
一、歴史と地理
  金門は、中国福建省アモイ(廈門)の南に散在する大金門本島、小金門、大瞻、小瞻、東碇、 北碇を含む12の島嶼の総称で、総面積は約150余平方キロ、 明代以前は浯洲嶼、仙洲、浯江、浯島等と呼ばれていました。 明初の洪武年間、海防の要地として千戸所が設けられたとき、江夏侯の周徳興が島に砦を築き、 地名を金門に改めたといわれています。 これは、「固若金湯、雄鎮海門」(金城湯池のように守りが非常に固く、 強固な海防の門である)という言葉から「金」と「門」の二字をとって名づけたのであります。

  元来、金門は人煙のない島でしたが、晋(西晋265~316年、東晋317~419年)の時代に、 「五胡」と呼ばれる匈奴(きょうど)、羯(けつ)、鮮卑(せんび)、氐(てい)、 羌(きょう)の5種族が華北に侵入したため、 当時中原(中国文明発祥地である黄河中流域の平原地帯)に住む漢人は続々と南遷し、 そのうち海を渡って金門に避難したものもいました。 金門の開拓はこのときから始まったと思われます。

  明末清初、「反清復明」(清朝を倒し、明朝を回復する)を志していた鄭成功は、 金門と廈門を根拠地とし、1661年、艦船四百隻、将兵約二万五千人を率い、 台湾海峡を渡って台湾の台南に上陸し、オランダ人を台湾から駆逐しました。 これにより、金門の地が初めてその名を世に馳せたのであります。

  鄭成功は台湾の台南を都として鄭氏王朝を樹立しましたが、残念ながら翌年台南で病死しました。 長男の鄭経がその後を継ぎ、鄭経の後は鄭克ソン(土爽)が擁立されました。 しかし、内紛が絶えず、1683年鄭氏王朝はついに清軍によって滅ぼされ、 金門も清朝の支配下に置かれました。 清朝は金門に総兵官を派遣して防備に当たっていましたが、清朝滅亡後、 中華民国政府が金門県を新設して廈門道の管轄下に置きました(1914年)。

  現住人口は6万8千余人を数えますが、そのうち閩南(福建南部)の泉州、漳州、同安、 廈門を原籍とする島民が多数を占め、台湾の閩南人と同様、 閩南語(廈門語ともいう)が母語となっています。 元来、島民は渡し船や漁船で金門と廈門を自由に行き来していましたが、しかし、 1949年以降約半世紀、金門と大陸の往来は完全に遮断されました。 それは、「国共内戦」によるものであります。

  「国共内戦」とは、蒋介石の率いる中国国民党(略称「国民党」) の政府軍と毛沢東の率いる中国共産党(略称「中共」)の人民解放軍との戦いです。 1945年8月、中国は抗日戦争の勝利を迎えると同時に国共内戦に陥りました。 4年間にわたって激戦の末、国民党が敗れて中華民国政府 (「国民政府」ともいう)とともに大陸から台湾に移転し、台北を首都としました。 一方、大陸全土を支配するにいたった中共は北京で中華人民共和国を樹立しました。 これによって中国が分裂国家となったのです。
  国民政府が大陸から台湾に移転する際、大多数の軍隊を直接台湾と澎湖に撤退させましたが、 人民解放軍の追撃を阻止するため、大陸沿海の海南島、舟山群島、金門、 馬祖などにも数十万の兵力を配置しました。 その後、蒋介石総統は兵力を集中して台湾、澎湖、金門、馬祖(略称「台澎金馬」) の防衛を強化するため、海南島と舟山群島などの軍隊を台湾に撤退させました。 こうして金門と馬祖が中華民国の対中共の最前線基地となり、戒厳令の下で軍政が敷かれました。

二、「古寧頭戦役」と「金門砲撃戦」
  国民政府が台湾に移転した後、中共は幾度も金門を攻略しましたが、いずれも失敗に終わりました。 ここでは最も激しい戦いであった「古寧頭戦役」と「金門砲撃戦」(別称「八二三砲戦」) を取り上げて紹介しましょう。

(一)古寧頭戦役
  1949年10月24日、人民解放軍は二個師団(約2万人)の作戦部隊を編成し、 百数十隻の漁船や木船を掻き集め、厦門周辺から渡海して金門島を攻略する作戦を発動しました。 渡海距離は10数キロに過ぎませんが、 輸送船の不足で2万人の部隊を2陣に分けて金門島に送り込む作戦計画が立てられました。 第一陣の8千人は、同夜21時に澳頭東北海湾、大嶝島及び蓮河の三地から乗船し、夜半に出航しました。 三方面の船隊は大嶝島の海域で合流してから金門島に向かい、 翌25日午前1時40分に金門島の古寧頭に到着して上陸を始めました。 ところが、民間の漁船や木船は十分に訓練を受けておらず、 そのために接岸したとき船隊の列が崩れて大混乱となりました。

  第一陣の部隊を運んできた船は、出発が予定より二時間も遅れ、また、上陸に時間がかかり過ぎたため、 金門から引き上げる前に引き潮に遭い、次々と坐礁しました。 結局、百数十隻の船は、夜明け後、国府側の空軍、海軍と砲撃部隊によって全部破壊され、 一隻も対岸へ戻ることができなかったのです。

  上陸した解放軍は善戦を見せましたが、後続部隊が断たれたため窮地に陥りました。 国府軍は、陸軍、海軍、空軍および戦車部隊を出動させ、敵軍に砲火を浴びせながら、 古寧頭方面に追いつめました。 25日夜、解放軍は、厦門周辺から新たに掻き集めた船を使って約五百人の兵力を金門に送りましたが、 しかし、これは焼け石に水をかけるようなものでした。

  当時金門の国府軍の総兵力は四万人を超え、上陸した解放軍の兵力はその五分の一にも及ばず、 兵器面においても、解放軍は国府軍に大きく引けを取られました。 それは、木船で重兵器を運搬するには限度があったからです。 したがって、国府軍の陸・海・空軍および戦車部隊の連合作戦のもとで、解放軍は敗退し続け、 27日に至って、ついに全滅しました。 国府軍側の発表によると、この戦役において、解放軍は、軍人8736人、 民夫(船頭)350人、計9816人の兵力を失い、うち三千余人が捕虜となり、残りの五千余人は戦死しました。

  元来、解放軍は金門島を奪取し、これを拠点にして台湾に侵攻する予定でしたが、 しかし、強力の空軍と海軍を擁しないまま、無謀な渡海作戦を強行した挙句、 全軍壊滅の惨敗を喫しました。 この戦役は、国共内戦勃発以来、国府軍にとっては全面敗退中の唯一の勝利であり、 逆に解放軍にとっては連戦連勝中の唯一の敗北であります。

  国共内戦の全過程を振り返ってみると、古寧頭戦役は決して大規模な戦闘とはいえません。 しかし、国府軍の勝利により、解放軍の台湾侵攻が食い止められ、 その結果、台湾海峡両岸(中台)の分裂・分治の局面が確立したのであります。 ゆえに古寧頭戦役は天下分け目の戦いであり、現代版の「赤壁之戦」 (後漢末期の208年、赤壁において劉備と孫権の連合軍が曹操の軍を破り、 天下三分すなわち三国の形勢を決めた戦い)といわれています。 1984年金門県金寧郷に「古寧頭戦史館」が建設され、現在は有名な観光スポットとなっています。

(二)金門砲撃戦(「八二三砲撃戦」)
  1950年代後半、国際的にいわゆる「平和共存」が推進され、 アメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営も緊張緩和の方向に進みつつありました。 こうした国際環境の中で、中共は平和的に国家の統一を達成させるため、 1955年から台湾に対して平和攻勢を発動し、国民党に第三次国共合作を実現するよう呼びかけました。 しかし、中共は「平和統一」を叫びながら、機会あるごとに「国民政府が平和談判に応じなければ、 中国人民は必ず武力を行使して台湾を解放する」と公言しています。 これは「招降」(降伏勧告)に等しい呼びかけであり、蒋介石総統はそれを一蹴しました。

  平和談判の呼びかけが国民政府によって拒否されたため、 中共は公言どおり武力に訴えることにしました。 しかし、当時、台湾海峡の制空権と制海権は国府軍側に握られ、その上、 アメリカの第七艦隊が常時台湾海峡に駐留しているので、 中共が空軍や海軍を出動させて台湾を侵攻するのは不可能でした。 そこで、中共が発動した作戦は福建沿岸から国府軍の前線基地である金門諸島に対する砲撃戦でした。

  1958年8月23日、 人民解放軍の砲兵部隊は厦門・蓮河・囲頭三方面から一斉に金門に向かって砲撃を開始しました。 国内外を震撼させた「金門砲撃戦」(「八二三砲戦」ともいう)はこれによって勃発したのです。 これは国共内戦史上最大規模の砲撃戦であります。砲撃は43日にわたって続けられ、 10月6日に中止しました。 その間、人民解放軍は毎日昼夜を問わず、集中豪雨のように金門諸島に対する砲撃を行い、 計45万余発の砲弾を撃ち込みました。 金門諸島の面積は大金門・小金門・大擔・小擔などを含めて約150平方キロに過ぎず、 砲弾の密度はこれによって想像できます。 なお、双方の海軍と空軍も金門諸島の周辺の海域と上空において、激戦を繰り返していました。 空中戦と海戦において、中共は多数のミグ戦闘機と戦艦を失いました。

  10月6日以降、中共は金門諸島に対する本格的な砲撃戦を中止し、 その代わりに心理作戦の宣伝ビラを撒き落とすためのいわゆる「隔日砲撃」 (奇数日に砲撃)を実施しました。 「隔日砲撃」は、中断することなく20年間も続けられていましたが、 効果がまったくなく、ただ砲弾の消耗でした。 そして1979年元旦の日、米中国交樹立を契機に、中共は金門諸島に対する「隔日砲撃」を中止しました。

三、「小三通」
  「三通」は通郵、通商、通航の略称で、その実施においては「小三通」と「大三通」との区別があります。 前者は福建省の「両門」(金門と廈門)および「両馬」(馬祖と馬尾)の「三通」をさし、 後者は大陸と台湾(澎湖諸島を含む)の「三通」です。 ここではまず「両門」の「小三通」を取り上げて説明します。

  1979年元旦、金門に対する「隔日砲撃」の中止と同時に、中共「全国人民代表大会」 (略称「全人代」)常務委員長葉剣英が「台湾同胞に告げる書」を発表し、その中で、 一日も早く両岸の通郵、通航を実現させ、同胞の接触と相互訪問を促進することを台湾に呼びかけました。 つづいて、1981年9月30日中共建党60周年に際して、 葉剣英はさらに九項目からなる「平和統一」方案(略称「葉剣英九項目」)を発表し、 その第二条にいわゆる「三通四流」(「三通」は通郵、通商、通航、「四流」は学術、文化、 スポーツ、工芸の交流)の実現を台湾側に提案しました。

  中共の平和攻勢に対して、蒋経国総統は「接触せず、交渉せず、 妥協もしない」という「三不政策」を打ち出し、中共の呼びかけを拒みました。 しかしながら、中共が「三通四流」を発表した後、 望郷の念に馳せられた台湾の大陸出身者(通称「外省人」)は違法ながら香港、シンガポール、 日本など第三国・地区を経由して大陸へ里帰りする人が続出し、大きな社会問題となりました。 これは人道に関わる問題であるため、政府は違法者に対して黙認する以外になす術がなく、 ついに対大陸政策の緩和を断行しました。

  1987年7月15日、蒋経国総統は国民政府が38年間(1949~1987年)にわたって「台澎金馬」 地区に敷いていた戒厳令を解除し、同年11月2日には「大陸探親」 (大陸への里帰り、または親族訪問)を解禁しました。 これにより、人民の出入国が自由となり、大陸への里帰りも可能になりました。

  親族訪問による両岸の人事交流は、その後さらに経済、文化、学術、スポーツなど各方面に拡大され、 一般人民も観光、商用、学術、スポーツ、 取材活動などの名目で大陸を訪問することができるようになりました。 しかし、国民政府は大陸との直接「三通」を認めないため、大陸への人事、 経済などの交流はすべて第三国・地区経由で行われていました。

  台湾の住民が第三国経由で大陸を訪問することはそれほど不便を感じませんが、 金門と馬祖の住民にとってはきわめて不便かつ不経済でした。 金門から廈門、馬祖から馬尾の距離は目と鼻の先のようなものであり、第三国経由だと、 金門と馬祖には空路も海路も国際線がなく、 百キロ以上も離れた台湾に渡って乗り換えしなければなりません。

  したがって、金門・馬祖諸島の住民は「大陸探親」政策が実施してまもなく、 一部の島民は漁船を使って密かに対岸に渡って親族と知人を訪問し、その中で商売を行う者もいました。 福建沿岸の大陸住民も金門や馬祖諸島に密航して同様な交流を行っていました。 このほかに、海上で密貿易を行う人も少なくありませんでした。 このような違法行為は公然の秘密となり、しかし治安当局は見て見ない振りをしていました。

  こうした無法状態をいつまでも放置するわけにはいかないので、 政府は「両門」と「両馬」の交流を合法化させるため、「小三通」の実施に向けて動き出しました。 2000年3月21日立法院(国会に相当)が「離島建設条例第18条」を採択し、 その中で「離島発展を促進するため、台湾本島が大陸地区と全面通航する前に、 まず金門・馬祖・澎湖と大陸地区の通航を試行する」と説明し、 これを「小三通」実施の法的根拠としました。 同年5月に新誕生した民進党の陳水扁政権は「離島建設条例」に基づき、 「金門・馬祖と大陸地区の通航を試行する実施規則」を制定し、 翌2001年元日に金門・馬祖と対岸の「小三通」をスタートさせました。

  「小三通」実施後、金門と廈門の間に海運の定期便が運航し始めました。 これにより、金門諸島と対岸の人事交流は日増しに盛んになり、 「台商」(大陸で商業を営む台湾商人)や大陸への観光客も金門を中継地として往来するようになりました。 また、大陸からも毎日大勢の観光客が金門諸島を訪問しています。

  「小三通」実施の初期、金門と廈門の間にフェリーの定期便は週3往復(月・水・金)だけでしたが、 2004年には一日往復12便に増え、現在は一日36便が往来しています。 統計によりますと、2010年の年間乗客数は延べ137万9538人に達し、 就航十周年の累計乗客数はすでに600万人を超えています。 この乗客数と交通量を見てもわかるように、 「小三通」が金門にもたらした経済効果はきわめて大きいと思われます。 しかし、台湾側にとって不安もあります。 すなわち、「小三通」によって金門と大陸との関係がますます緊密になり、 逆に台湾との関係は次第に薄れていく恐れがあることです。

  ちなみに、「大三通」は2008年国民党が復権した後、 馬英九総統の推進の下ですでに実現されていますが、「小三通」にはほとんど影響を与えていないようです。

四、観光名所
  両岸武力対峙の時期、筆者は義務兵役により、一年間の予備軍官(少尉)として召集され、 約五ヶ月金門に駐留したことがあります。 そのとき、金門に多くの歴史的文化財が存在していることに気づき、 また職務範囲内で見た地上や地下の特殊軍事施設に驚きを感じ、 心の中で、平和の時代が訪れてきましたら、金門はきっと世界の有名な観光地になるだろうと確信していました。 そして、1980年「隔日砲撃」が中止された後、筆者は数回日本の学術団体と大学の研修団に参加して金門を訪問し、 今まで知らなかった秘密な軍事施設、例えば地下坑道、地下運河、地下ホールなどを見て、 金門が自分の予測とおり、素晴らしい観光島になりました。以下、金門の観光名所について紹介しましょう。

(一)歴史的古跡
  金門諸島には豊富な観光資源があり、歴史的な名勝古跡のほか、 観光スポットとして公開された軍事施設や戦争遺跡ないし戦争記念館なども多数あります。 歴史的文化財に認定された古跡は国定が21箇所、県定が12箇所、計33箇所あります。 国定の古跡は三つのランクに分け、一級は邱良功母節孝坊の1箇所、二級は文台宝塔、陳禎墓、 瓊林蔡氏祠堂、朱子祠、虚江嘯臥碣群、陳健墓、水頭黄氏酉堂別業の7箇所、三級は豊蓮山牧馬侯祠、 漢影雲根碣、魁星楼、瓊林一門節坊、西山前李宅、盧若騰故宅及墓園、古龍頭水尾塔、海印寺石門関、 邱良功墓園、古龍頭振威第、陳禎恩栄坊、清金門鎮総兵署、蔡攀龍墓などの13箇所です。 県定古跡は文應挙などの12箇所があります。 ここでは一級の邱良功母節孝坊だけを取り上げて紹介しましょう。

  邱良功母節孝坊は金門唯一の国定第一級の文化財で、その歴史は約200年を数えます。 これは、清朝浙江水師提督邱良功の母許氏が夫に死別した後、 28年間後家を通し独力で邱良功を国の重任を担う人物に育てた功績を表彰するため、 清朝政府が嘉慶17年(1812年)に建てた「牌坊」 (忠孝貞節の人物を顕彰するために建てられたアーチ様の建物)です。 牌坊はすべて良質の石材を使って築き、建物の彫刻も精巧を極め、実に芸術傑作といえます。 現存の牌坊として台湾地区を含め、これは最も完備した最大規模のものといわれています。

  なお、金門の住民が東南アジアないし日本に出稼ぎに行って財を成し、 その資金で故郷に建てた洋館や大邸宅が多くあります。 このような建物は水頭村、珠山村、山後村に多く保存され、観光スポットになっています。

(二)軍事施設の観光名所
  金門は「地下金門」と称されています。 それは金門諸島の地下に軍事施設、民防坑道(民間防衛の地下トンネル)、軍用坑道、地下運河、埠頭、 ホール、迎賓館、病院などがたくさん造られているからです。

  すでに述べましたが、金門諸島は福建沿岸のすぐ近くにあり、至近距離は約2、3キロ、 遠いところでも10数キロに過ぎないので、砲撃戦の場合、金門全域が敵軍の大砲の射程圏に入ります。 したがって金門諸島の軍事施設は主として砲撃に備えて構築されています。 鉄筋コンクリートのトーチカはいたるところに見えますが、主要な軍事拠点はほとんど地下にあります。 まず民防坑道と軍事坑道について紹介しましょう。

  民防坑道は12箇所ありますが、最も有名なのは金城民防坑道、盤山戦闘坑道、 瓊林戦闘村坑道の3箇所です。 金城坑道は金門の県庁所在地である金城市街地区の地下にあり、1978年3月に起工、翌年の6月に完成、 幹線と支線があり、全長は約2,560メートルあります。坑道内に待避所、防御鉄門、突撃進出口、 曲折射撃所、機関銃堡塁、浅水井戸、発電機室などが設けられています。 坑道は県庁、銀行、電力会社、郵便局、鎮公所(役所)、バス・ターミナル、保育園、幼稚園、小学校、 中学校、高等学校などに通じ、金城鎮地下が一つの戦闘網になっています。

  盤山戦闘坑道は金寧郷公所(役所)所在地の盤山村の地下に構築されています。 工事は1976年から1982年まで、計6年間もかかりました。 坑道の長さは幹線と支線を合わせて約2,000メートルに達します。 道幅は狭く、一人しか通行できないので、二人が向き合って通るときは体を斜めにしなければなりません。 出口は10余箇所ありますが、いずれも防空壕あるいは民家に通じます。 坑内には井戸や発電機があり、軍糧や弾薬を備蓄する倉庫も設けられています。 また、敵の侵攻に備えて坑道の曲がり角を利用してところどころに機関銃の射撃口があります。

  瓊林戦闘村坑道は1977年に完成、全長1,350メートル、6メートル深さの地下に構築され、 四方八方に通じます。 道幅は一人しか通行できないので沿道に12箇所の緊急出口が設けられ、坑外の堡塁や民家に通じます。 村の地下がまるで一つの自衛戦闘坑道になっています。

  軍用坑道は多数ありますが、中央坑道、翟山坑道と九宮(四維)坑道の三つが最も有名です。 中央坑道は太武山の中に構築された最大規模のトンネルで、坑道内には兵器庫、弾薬庫、 戦車基地などがあります。 道幅が広く、戦車は随時地下から地上に出てきて敵を襲撃することができます。 この坑道は太武山の核心陣地にあり、特別許可がなければ見学はできません。

  翟山坑道は金門島古崗東南方の海岸にあり、砲撃戦に備えて花崗岩を掘って構築された地下運河です。 内部は坑道と水道に分け、坑道の全長は101メートル、広さ6メートル、高さ3.5メートル。 水道は全長357メートル、広さ11.5メートル、高さ8メートル、途中で二股に分かれて「A」字形となり、 2箇所の出入口があります。 河岸が埠頭となって42隻の小型船艇が停泊できます。 平時台湾から軍需品や人員などを運んできた船舶は直接料羅湾の埠頭に入港しますが、 砲撃戦が発生した場合、金門全域が敵の射程内にあるため、船舶は料羅湾外の海域に止まり、 積み荷を小型船艇に降ろして地下運河の埠頭に搬入します。 この翟山坑道はすでに公開され、金門の主要な観光スポットになっています。

  九宮坑道は「四維坑道」ともいいますが、これは小金門の南東部に建設された地下運河です。 坑道には四つの出入口があり、二つの「丁」字形になっています。坑道の全長は790メートル (約翟山坑道の2倍)、五つの埠頭があります。 この坑道は翟山坑道と同様、砲撃戦に備えて軍需品を搬入する秘密の地下運河です。 2001年から対外公開され、有名な観光スポットとなっています。

  しかし、地下施設の花形といえば、やはり「擎天庁」でしょう。 これは、1963年太武山の花崗岩を掘って造った地下ホールです。 ホールは長さ約50メートル、広さ18メートル、高さ11メートル、 千人を収容できる座席が設けられ、会議場、式場、集会場、劇場、映画館として利用されています。 「擎天」は天を支える意味ですが、「人間の力が大自然に打ち勝つことができる」という深意があります。

  太武山の中にもう一つ有名なホテルがあります。 「地下希爾頓」(地下ヒルトン)と呼ばれる迎賓館です。 内部は十数室の客室があり、以前は迎賓館として使われていましたが、いまは台湾出身の歌手・鄧麗君 (テレサ・テン)およびシンガポール前総理李光耀(リークアンユ) が宿泊していた部屋だけが保存されています。

(3)その他の観光名所
  観光名所になった軍事施設は、地上にも多くあります。 まず挙げられるのは金門島東北端の馬山観測所です。 馬山は官澳村の北側にあり、対岸との距離は僅か2,100メートル(引き潮時1,800メートル)にすぎません。 武力対峙の時期(1949~1987年)、国府軍はここに観測所と播音站(俗称「喊話站」)を設置しました。 観測所は敵の動向を監視する拠点であり、所内に3台の高倍率の望遠鏡が設置され、 晴天の日、小窓から対岸の光景がはっきり見えます。 「喊話站」は対敵心理作戦を行う放送ステーションで、 48個の大型スピーカーが蜂の巣のように馬山外側の岩壁に付けられています。 テレサ・テンがここで放送したことがあるといわれています。 しかしながら、馬山の観測所と「喊話站」が観光地として公開された後、その戦時任務は終わりを告げ、 現在観測所の望遠鏡を見るのは観光客であり、 「喊話站」のスピーカーから出てくる声は流行歌または閩南語の歌謡曲だけです。

  このほかに、古寧頭戦史館、八二三戦史館、八二三砲戦記念碑、湖井頭戦史館、金門酒廠、 蒋経国記念館、莒光楼、金門慈湖等も観光名所として人気があります。 ちなみに、金門には二つの名産があります。 一つは金門酒廠の高粱酒(コーリャン酒)です。 これはコーリャンを原料としてつくった無色透明の蒸留酒で、アルコール分が高く、味の強烈な酒です。 もう一つは金門包丁です。 これは1958年「八二三砲撃戦」のとき、 人民解放軍が金門に打ち込んだ45万余発の弾丸の破片を集めて鍛冶した包丁です。 この二つの名産は観光客に人気があります。

  以上述べたように、 「小三通」の実施と観光の開放によって金門は中華民国の前線基地から観光島に変貌しました。 歴史的な名勝古跡はどの国にも多かれ少なかれありますが、 金門のように秘密軍地基地を観光地として公開されるところは稀でしょう。 これが観光島になった金門の売りものであり、今後金門への観光客はますます増えるに違いません。

 楊合義 2011.03.01 (転載不可)





洋館一角(得月楼)




馬山播音站(馬山喊話)




八二三戦史館




蒋経国記念館




莒光楼




金門包丁を作る砲弾




金門民俗文化村




大陸から見た金門島