茶的故事 

 台湾茶

 其の七 阿里山高山茶<軌跡篇>

 
  台湾の五大山脈である中央山脈、玉山山脈、雪山山脈、阿里山山脈、海岸山脈は 2000m級の山が多く、明清時代にこれらの山に近い平地部分までが漢民族によって 開拓されました。 山間部では山に住む原住民との衝突が頻繁に起き、 さらには原住民には人狩りの習慣があったため、 その後開拓されることなくそのままになっていました。
  阿里山には動物の狩猟で生計を立てていた原住民が住んでいました。 漢民族は、この原住民の言葉で「人」や「人類」という意味の言葉の発音に漢字の 「鄒」(「Tsou」と読む)を当て、「鄒族」と 呼ぶようになりました(ただし、以前は「曹族」という表記も使っていました)。
  阿里山の本格的な開発は、19世紀末の日本統治時代に日本の探検隊によって 多くのヒノキが発見され、台湾総督府殖産局の指導による森林開発が始まったとされています。 有名な阿里山鉄道は、伐採された木材を運搬するために台湾総督府によって作られたものです。

  阿里山で本格的に茶が栽培されるようになったのはほんの20年前で、 包種茶が主に生産されました。 台湾の気候、地質はとても茶葉栽培に適していて、平地でも茶葉栽培ができます。 しかし、高い山で栽培した茶の葉は、気候の厳しさから肉厚でより強くなります。 このため、厳しい製茶工程を耐え抜くことができ、 阿里山茶は最終的に5mmに満たない球型に製茶されます。
  そして、湯を注ぐと、茶葉は再び小指の長さぐらいのほぼ原型にまで開き、 その瞬間にすばらしい茶香が立ち上る上質の茶になるのです。 加えて、中国本土ではすでに多くの1000m級の山で茶が栽培されていたのに対して、 台湾ではまだ珍しかったことも高山茶の人気に拍車をかけたのだと思われます。

  高価な茶が採れたことにより阿里山及び周辺の山では茶園開発が進み、 竹崎や梅山など11茶区ほどが作られました。 特に竹崎郷の石棹地区では1980年に青心烏龍種を導入し、1987年に謝東閔(元副総統)により阿里山珠露茶と 命名されています。
  しかし、土砂災害の危険や森林保護の観点から、 現在は新しい茶園の開発が禁止されています。 このため、さらに近隣の山にも多くの新しい茶園が作られるようになりました。 最近は、嘉義県・南投県の1000~1300mの茶区も高山茶の新興茶区とされるまでになっています。

  高山茶は青心烏龍種を使った包種茶または発酵の軽い烏龍茶が中心ですが、 最近は金萱、翠玉などの新しい茶種も栽培されだしています。 特に、金萱から作られた乳香烏龍茶は希少価値があり、 そのあまい味と香りが女性に好まれています。

  1999年の台湾大地震では、 阿里山の茶畑はさほどダメージを受けなかったといわれていましたが、 市場価格はやはり低下したように思います。 台湾での阿里山茶人気は一時期より落ち着き、やや買いやすくなりました。 台湾もバブルがはじけたからという人もいますが、 一回の購入価格が台湾元で1000~2000元(当時のレートで5000~10000円)になるように 50~100グラムに小分けされて売られるようになったことも一因です。 

  近年は、高山茶の名声にあやかろうと1000m級の山で栽培した茶には どれも高山茶と付けられるようになり、市場を混乱させました。 このため、品評会出品茶には生産者がワインのようにきちんとしたラベルを貼るか、 または主催者が発行する枚数限定のラベルを貼り、商品保証するようになりました。
  阿里山でも生産者が個々にパッケージに「阿里山」ときちんと産地を明記して 高山茶を売るようになりました。 そして、やっと最近、阿里山を管轄する嘉義県政府がブランド統一、 品質管理計画を発表したところです。

 楊品瑜 2004.10.30 (転載不可)


高山茶(2003年春茶)




阿里山茶(乳香烏龍茶)